その存在が害でしかない芸術作品もある、という現実にアーティストはどう直面するべきか
March 13, 2007
その存在が害でしかない芸術作品もある、という現実にアーティストはどう直面するべきか [ dance ]
僕はアーティストなので、芸術の可能性を信じている。すべての芸術作品は存在意義があると思うし、そう思いたい。
しかしながら、その存在意義を認めたくない作品もあるのだ。
劇団解体社の公演「要塞にて」を観にいった。理由はある演劇批評家の方に薦められたからである。
僕の作品と解体社の作品には親和性がある、それは認めよう。いや向こうのほうが有名なわけで、そんな偉そうな態度はとりませんよ。喩えていただけれるだけで喜ぶべきか。
いえいえ、作風だとか作品の要素だとかはどうでもいい話。
芸術だからといってやっていいことと悪いことがあるでしょう。
「要塞にて」ではビデオによるテロップが流れる。その中の一部分は従軍慰安婦に関するものだ。その文章は従軍慰安婦は日本政府が公式に強制的におこなった制度だと訴えている。
# 文言は正確ではない
これは正しくない。安部首相が最近発言したとおり、強制があったという証拠はない、のが歴史的事実だ。
僕は従軍慰安婦問題について語りたいわけではない。
彼らが、解体社がその問題を扱うやり方について異議を唱えたいだけだ。
なぜ、その問題を作品で使うのか。
理由は簡単だろう。物議をかもす問題を取り上げることで作品に緊張感を加えたいだけだ。
もし、作品によって社会問題を世にアピールしたいのであれば、スピルバークが、イーストウッドがそうしているように、エンターテインメントとしてより多くの人々に問題を知ってもらうようにする方法がある。あるいは、その問題を加工することなく、取り上げるべきだろう。
1行、2行のテロップで何が伝わるというのか。何が理解できるというのか。
問題に対する誤解を増幅させるだけでしかない。しかも限られた観客層の中で。
少なくともこれだけは言える。
解体社の姿勢は従軍慰安婦問題に真摯に関わっているすべての人々に対する冒涜である。
そして、すべての芸術に対する冒涜である。
アーティストである僕はその姿勢をけっして許したくない。