dance
ダンスに関する文章です。
見ることの意思 [ chain , dance ]
「明晰の鎖」公演で導入したチケット料金システムについて、fringeのトピックにて取り上げられました。取り上げていただきありがとうございます。
この機会に、僕たちの公演に料金を支払っていただくということについて、僕たちの考えを補足します。
芸術に支払うお金、僕たちの場合であれば公演の入場料金、というものは何かの対価に対して支払われるものではないと考えます。
それは、支払う側、僕たちの場合は観客と呼ばれる人々、の意思表示なのではないでしょうか。
観客の意思というものは千差万別だと思います。しかしながら、今回のチケット料金を設定するに当たっては、その意思を「作品に対して貢献すること」「作品を体験すること」「作品を必要とすること」と表すことで各料金との対応付けをおこなっています。それぞれは異なるレベルにあるものですし、独立しているものでもありません。また、観客の方々が、必ずしも僕たちが想定する意思を持って料金を支払っていただく必要もないと思います。
確固たる意思を持って僕たちの作品を見てほしい、いえ参加してほしい、そう僕たちは望みます。舞台芸術の作品は、観客が見ることによって初めて成立するものですから。
その意思を喚起させること、と同時に入場料金を支払うという経済行為の意味づけを問うこと、それが今回のチケット料金システムに込められた意図なのです。
芸術家個人とはいったい誰か [ dance ]
大橋可也&ダンサーズは2007年よりセゾン文化財団より「芸術創造活動」のプログラムにて年間300万円の助成を受けている。それ自体は僕たちにとって、もちろんあなたたちにとってもね、よいことであるのは間違いない。
そのことは措くとして、来年度からセゾン文化財団の助成方針が変更になり、芸術団体に対しての支援から、芸術家個人に対しての支援に変更になったので、そのことに関連したことを書くとしよう。
プログラムガイドライン 芸術家への直接支援
今の日本では、ダンス、演劇だってそうだろう、振付家、演出家、劇作家、肩書きは何でもいい、そんな連中が中心となったプロデュース、ユニット形式の活動が中心となっていて、団体を維持して活動していくケースは減るいっぽうであると言っていいだろう。団体といっても助成金をもらうための名ばかりのものもあるよね。件のセゾン文化財団から助成金を受けている団体の中にも。
そういう現状を鑑みれば、個人を対象にした支援にシフトすることは間違ってはいないだろう。果たしてそうだろうか。
よくよく考えてみなくてはいけない。芸術家個人とは誰か、ということを。その個人が存在するとして彼、あるいは彼女の活動に助成金というものが必要なのだろうか。いや、必要ではない。
芸術家とは活動の経済的な規模に関わらず、芸術家なのであって、経済的な規模が小さければそれに見合った活動をするのだ。その活動を維持するために助成が必要な芸術家など存在してはいけない。そうだよ、金なんていらないのさ、芸術家にはね。
ならば。芸術団体とは何か。芸術が社会に存在するための基盤を構築するための拠点となるものである。そこにはダンサー、役者、スタッフたちが集い、それ自体が社会の一部を形成するものなのだから。そして、彼らを通じて社会全体と関わりを持とうとするものだから。
その基盤を維持、発展させていくためには経済的な支援が、助成が必要なのだ。その基盤が社会に根付くまでは。そうは思わないかい。
セゾン文化財団には再来年度から助成方針を再考していただきたい。もちろんこの意見を直接伝える機会を持つことにする。
旅、あるいは移動について [ dance ]
いつの頃からか旅ということを意識するようになった。僕はもともと旅に出ることなんて興味は無かった。まあ、言ってみれば引きこもりだしね。今だって出かけることは嫌い。そうなのだが。
今ここにいることだって旅の途中ではないのだろうか、そんな気がしてくるようになった。多分、そんな思いと関係がないわけではないだろう、昨年の『明晰さは目の前の一点過ぎない。』は「イクストランへの旅」をテキストに使っていたし、その次の作品は『Journey Beyond the Clarity』と名づけたのだった。
「モーション(移動)はエモーション(感情)を生む」とはヴィム・ヴェンダースの言葉らしい。僕はこの言葉をリュミエールだかで目にしていて、最近までヴェンダースの言葉ではないと思っていたのだが、稽古場ではずいぶん使わせてもらっている。そう、移動は物理的な距離とは関係ないのであって、むしろ感情を生むために必要な体験なのではないだろうか。
僕は、僕たちは、とどまること、簡単に言ってしまえば劇場に、そのシステムに在り続けるいうことなのだが、そのことによって外界との境界線を切り崩そうとしてきた。その方法は間違っていないと思うし、もちろん意図してのこと。もう境界線を軽く越えてもいい時期かもしれない。
そろそろ旅に出ようか。最初の漂白地はけっして遠い地ではないだろうけれども。
ダンス蛇の穴第一期 [ dance , snakepit ]
ようやくダンス蛇の穴第一期のプログラムが決まりました。
今回は、ダンスクリティーク、音響レクチャー/ワークショップ、創作ワークショップのラインアップで、2007/10/11から2008/1/13まで合計8回おこないます。
mixiダンス蛇の穴コミュ
※最新情報は随時更新します。
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」司会:木村覚
「牛の耳 ダンスをもって音をたちきれ」牛川紀政音響レクチャー/ワークショップ
「出演者と観客による集団創作は可能か?」企画、進行:垣内友香里
会場:
森下スタジオ(2007年11-12月はBスタジオ、2008年1月はAスタジオ)
東京都江東区森下3-5-6
地下鉄都営新宿線、都営大江戸線「森下駅」 A6出口徒歩5分

時間;18:30-21:30
料金:1000円(当日のみ、ドリンク代込み)
助成:財団法人セゾン文化財団
企画制作、主催:大橋可也&ダンサーズ
問い合わせ:
大橋可也&ダンサーズ
mail: office@dancehardcore.com
tel: 03-5789-9892
fax: 03-5789-9893
tel: 070-5218-5251(当日のみ)
「ダンス蛇の穴」について
ダンスは必要。世の人々にとって、ダンスがもっと意味あるものであればよいと思う。そのためには、僕たち、ダンスを作り出すものたちが、ダンスの意味を高めていかなくてはいけない。言葉を持つことも欠かせないプロセスだ。
ダンス蛇の穴は、来たるべきダンス作家を、スタッフを、制作者を、批評家を、観客を、ダンスそのものを産み出すための道場として機能していくことを目指していきます。
蛇の穴の由来は、ビリー・ライレージムより。
「明晰の鎖」ワークインプログレス上演にあたって [ chain , dance ]
2008/2/9-11に吉祥寺シアターで初演をおこなう大橋可也&ダンサーズ新作「明晰の鎖」のワークインプログレス公演を2回に分けて実施します。
大橋可也&ダンサーズにとって、観客とは舞台上の出来事を受け止める対象ではなく、出来事を成立させるための登場人物であるといえます。
今回のワークインプログレスでは「明晰の鎖」の創作過程にある出来事を公開します。来るべき作品の登場人物になっていただける方をお待ちしています。
その1:2007/11/23(金・休)17:00
その2:2007/12/30(日)17:00
「明晰の鎖」チケットについて [ chain , dance ]
大橋可也&ダンサーズ新作公演「明晰の鎖」のチケットについての説明です。
料金システムが分かりづらいとは思いますが、これも僕たちの作品の意思表示の1つと考えてください。
2007/12/21更新 見ることの意思について追記しました。
格差社会を芸術にとっても重要な課題であると考える大橋可也&ダンサーズは、3種類の料金設定によってチケットを提供させていただきます。
チケットA:¥20,000 お金に余裕があるので作品に貢献したい!
チケットB:¥5,000 ともかく作品を体験したい!
チケットC:¥0 お金はないが自分には作品を見る必要がある!
※全席指定、前売・当日とも同一料金
発売開始:2007/11/17
料金の差は席の違いを表すものではありません。
チケットAにはお土産が付きます。
チケットCは枚数に限りがあります。チケットCの当日発売はありません。
詳細はお問い合わせください。
【チケット購入方法】
チケットA, Bをご希望される方⇒

・チケットはご予約後10日以内に、お近くのセブン-イレブンでお支払い/お受け取りください。
・観劇ポータルサイト「カンフェティ」への会員登録(無料)が必要となります。
登録をすると、他劇団のチケットにも使える共通ポイントが貯まります(初回99ポイント+購入価格の1%)。
・席を選んでご予約できます。
・予約直後からセブン-イレブンで受け取り可能です。
※ご注意:当システムは 「Windows VISTA」 に対応しておりません。大変申し訳御座いませんが Microsoft Windows 98/Me/NT4.0/2000/XP または MacOS 9/10 をご利用ください。
チケットぴあ
0570-02-9999(Pコード381-130)
チケットCをご希望される方⇒
下記申し込み先まで以下の内容をメール、FAXまたは郵送で送付してください。
・名前/住所/メールアドレス/電話番号
・私は何故に大橋可也&ダンサーズの作品を無料で見る必要があるか(書式自由)
〒150-0012
東京都渋谷区広尾1-10-5日興パレス広尾プラザ604
大橋可也&ダンサーズチケット申込み係
fax:03-5789-9893
mail:office@dancehardcore.com
【問い合わせ】
大橋可也&ダンサーズ
tel:03-5789-9892
fax:03-5789-9893
mail:office@dancehardcore.com
就職氷河期 [ chain , dance ]
「明晰の鎖」のための覚え書き。
僕はバブル世代ど真ん中であり、まともに就職はしなくて最初に就職した会社も1年で辞めてしまったけれど、再就職してからは、たいへんなこともあったが何とか充実した職を続けていけていると思う。それは主に自分の努力によると思っていた。もちろん、タイミングに恵まれていたのも事実なのだが。
だから、就職に関する問題、フリーター、ニートたちにしても、それは彼ら自身の問題なのだと思って、ほとんど関心がなかったといってよい。しかし、明らかな事実として就職氷河期と呼ばれる時期があり、その時期に就職しようとした人たちの問題は今後の日本にとって大きな社会問題なのだ、ということにようやく最近気がついた。実際は僕自身もこの時期に再就職をしているので、無関係ではなかったのだが、そのことは措くとする。
彼らが本来技能を身に着けるべき時期に、その機会を逸してしまったこと、それは今の日本ではある程度の年齢に達した人が技能を身に着ける機会を持つことが困難であることを考えれば、これから何十年にも渡ってぽっかりと技術、技能を持たない世代が存在し続けることになるのだろうか。日本は技術立国ではなかったか。そのこと自体が幻想なのかも知れないが。
ここは就職氷河期について議論すべき場所ではない。では、どうしてそんなことを書いているかというと、僕たち、氷河期世代に先立つ世代のものが何をすべきか、考えなくてはいけないと思うからである。
僕自身はアーティストだから、作品によって、作品を作る姿勢によって、あらゆる問題に取り組んでいく。この問題についても同じことだ。
現行ダンサーズの平均年齢は29.8才、氷河期世代ど真ん中だ。彼らに関心を持とうとしたこと、それが今の僕の問題意識につながっている。関心を持つこと、何より大事なこと。
バウムクーヘン [ chain , dance ]
バームクーヘンではないらしい。「明晰の鎖」のための覚え書き。
今回の作品の1つのパートはバウムクーヘン同様に構成されていて、その制作方法もそれから影響を受けている。
これはどういうことかというと、個々の振りの層を同心円状に重ねていきながら1つの芯を持つ振付の固まりを作ってから、それを輪切りにして食するということ。って分かりづらいな。まあ、覚え書きなので。
食卓に並べるときには、輪切りにした切れ端をずらしながら重ねていき、それぞれに異なった味付けを施していく。もっとも食べる直前に一度ミキサーにかけてしまおうと思っているけれど。
状態遷移 [ dance ]
ダンサーは常に1つの状態(ステート)にあります。ある状態から別の状態に移ること、すなわち状態遷移が、振付に動きを、流れを与えます。つまり、ダンサーの動きとは状態遷移のプロセスに他なりません。
遷移の契機となるもの、それは外部からの刺激であるときもあれば、内的な感情の変化であるときもあります。
振付家とダンサーは、現在の状態、遷移の契機について共通認識を持つ必要がありますし、その共通認識が振付を表す言葉になるのです。
ダンスの快楽について [ dance ]
「土と塩」公演まで、あと1週間あまりとなりました。
今回の作品は、ある意味では大橋可也&ダンサーズ史上に残る意欲作だといえます。
なぜならば、今回の作品では、爆音、ストロボ、極端な身体のフォルムといった、ある種の分かりやすさを持った形象は登場しません。おなじみといってもいい、セックス、暴力のイメージも、少なくとも表面的にはですが、無縁の作品です。
では、見どころがまるでない作品になってしまうのでしょうか。
ある人々にとってはそうかもしれません。
しかしながら、僕は毎回の稽古を楽しんでいます。これだけ振付のディティールにこだわることの出来たことは今までありませんでした。ぎりぎりまでこだわるつもりです。
そのこだわりが、多くの人にとっても快楽と感じられるのだろうか。
その問いを投げかける作品になるでしょう。
間、ま [ dance ]
大橋可也の振付の外面的な特徴を一言で言い表すとするなら、それは「間」です。
では、間はどのように生まれるのでしょうか。
それはダンサーの内的体験に基づいています。ダンサーが感じること、思うことが時間的、空間的な間を生み出します。ですから、大橋可也の振付にスコアと呼べるものがあるとすれば、それはダンサーの内的体験に他ならないのです。
このスコアは土方巽が残した、弟子達が記述したといった方が正確でしょうが、暗黒舞踏の舞踏譜と近しいものです。そして、大橋可也はその振付を舞踏譜の豊かな世界に近づけたいと思うものでもあります。
内的体験は外的世界の反映である、と言うことも出来ます。
身体を器にし森羅万象をそこに映し出すこと。
舞踏の方法論を端的に言い表すなら、語弊はあるかもしれません、このような表現になるでしょう。
これは大橋可也の振付にも当てはまります。森羅万象というと自然というか人間が関与しないものを想像しがちですが、人間社会の出来事も森羅万象の1つであるに違いはありません。
僕たちが今生きている社会の出来事、日常といってもいい、を内的体験に反映させる。
これが大橋可也がやっていることです。
そこで生まれる間、さあそれは日常の間とどう違うのでしょうか。
この違いに、僕たちは、振付の、ダンスの楽しみを見出すのです。
9(nine)マインドマップ [ dance , nine ]
2007/6/9に多摩美術大学で國吉和子さんとおこなった9(nine)に関するレクチャーにて使用したマインドマップです。
http://dancehardcore.com/nine/9(nine)_lecture_20070609.html
9(nine)の制作過程において僕が重要と思う項目を列挙しています。
インストラクション20070602 [ dance , nine ]
昨日(2007/6/2)の稽古に使用した9(nine)後半振付のためのインストラクション(動作命令)。
しかし、これは振付ではないしスコアでもありません。
通常は稽古に先立ってインストラクションをテキスト化しておくことはなく、稽古を進めながら口頭でインストラクションを構成していきます。昨日、テキスト化したのはあくまで作業効率のためですが、テキストをダンサーに渡すのではなく、やはり口頭で伝えています。
ごめんなさい × 6
キック × 3
左手 × 19
首振り × 2
(叫び)
左手 × 2
首振り × 6
ごめんなさい × 3
左手 × 6
立ちくらみ途中まで × 2
左手
左足すべる
立つ
振り向く
左足すべる
グニャリ
ゲロから立ち上がる
左足すべる
グニャリ
ゲロから上体起こすまで
右回り × 5
雑巾から立ち上がる
雑巾繰り返し
左足すべる途中まで
立つ
プルプル
横移動
ゲロ床まで
立つ
ふらー
キック繰り返し
振り向く
ごめんなさい
首振り × 8
矢沢さん × 3
テヘランのロリータ [ dance , nine ]
9(nine)のモチーフとなるものはいくつかあるのだが、作品の背景は「テヘランでロリータを読む」で描かれた世界に近いと思う。
対立についてのメモ [ dance , nine ]
こんな感じ。
モノクロとカラー
匿名と自分
同質と異質
指示と内的動機付け
全体主義と個人の意思
一神教と多神教
男と女
必要なものと必要のないもの
振付家とダンサー
学校は嫌い [ dance ]
近々、大学で公演をやろうとしていて、もちろん大学側にもお世話になっているし感謝もしているのだが。
なんで大学って存在するのか分からないのです。特に芸術系の大学は。理系の大学だけは必要だと思いますよ。
物心ついた頃から学校は嫌いでした。といっても反抗する気力もないし、反抗する対象もない、先生が学校という制度を代表しているわけではない、ので普通に学校には行ってました。それも成績は良かったりしたので、そこそこ優等生と思われていたのでした。
特に嫌いなのは休み時間。授業はいいんですよ。聞いても聞かなくても時間は過ぎていくので。なんで休み時間に遊んだりすることまで強制されなくてはいけないのでしょう。
思い出話はここまでにして。
教育は必要である。それは芸術についても同じだ。しかしながら、その場が学校である必要はないのではないか。学びたいときに学ぶことが出来る環境、それがすぐここにあるべきだ。図書館もすばらしい。すべての人にとって必要なものだ。しかし、それが閉ざされた空間にあってはいけない。
ダンスも教育である。僕もアーティストであると同時に教育者として生きたいと思う。
その場を作っていきたい。学校という制度に閉じこもることなく。
突破する [ dance ]
何を為そうとするにも目的や動機付けというものがあるのだが、9(nine)にももちろん目的がある。それは2つのブレークスルーだ。
1. アーティストとして
大橋可也は閉ざされたシステムの中で作品を作ってきた。これからもそうだろう。
これまでの作品中でのダンサー達は、ダンス経験の長い者もいるのだが、そのダンサーとしての特性をある意味消していきながら、参加していたと思う。
完成されたダンサー、それも自らの振付法を持つダンサー、に振付することは大橋可也の振付、作品にどのような影響を与えるのか。それが今回の挑戦である。
なおかつ、ソロであること。関係性から始めていた振付の大きな転機となるか。
東野祥子も自分のシステムで作品を作ってきた。即興セッションは数多くおこなっている彼女でも、他者の振付、演出の作品に身を委ねることはなかったそうだ。
他者の振付で、しかもソロとして踊ることは彼女にとっても大きな挑戦だろう。
2人のアーティストが自身の壁をブレークスルーすること。
2. ダンスシーンに対して
日本のダンスシーンは閉塞的だと思う。そのこと自体は必ずしも悪いことではない。観客も少なくて構わないと思う。その中身が、つまりは作品が、作家が、作家と観客の姿勢が、充実していれば。
作家も作品も使い回し、消費されて終わっているのではないか。
ダンサー、振付家ののコラボレーションもよくある。しかし、それらの多くは制作主導であり一過性かつ作家の意図が不明確なものだ。
作家が自らの意図でシーンを作らないといけない。それは僕が常に主張していることである。
ダンスシーンの構造をブレークスルーすること。
芸術家とは何か [ dance ]
僕は自分自身を芸術家だと信じている。では、芸術家とは何か。
知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。
エドワード・W・サイード「知識人とは何か」より
ここでいう知識人を芸術家に、言葉を作品に置き換えるなら、僕の考える芸術家の定義となるだろう。
コンセプト [ dance ]
身体は何も表現しない。
とはいえ、ダンス作品にはテーマやコンセプトといわれるものがあり、僕もその存在の必要性を否定しない。
ダンス作品におけるコンセプトは何を意味するのか。
それは身体の存在意義を明確にするためのものだ。コンテンポラリーダンスと呼ばれる僕たちのダンスであれば、現代社会において身体がどのように存在しうるのか、ダンスはどのように成立するのか、その問題に1つの解決方法を提示するのがコンセプトの役割である。
身体表現は存在しない [ dance ]
僕たちのやっていることは「身体表現」とカテゴライズされることもあり、僕も人と会話をするときには、その使用について否定したりはしないのだが、まあ大人だからね。
身体表現とは何を意味するのか。身体が何かを表現する、ということが有り得るのか。そんなことは有り得ない。身体は何ものの表現しない。身体は、そこにいかなる動きが形容が付け加わろうとも、身体そのものを提示するだけなのだ。
身体表現は存在しない。
身体表現という言葉が存在する背景には、表現することが芸術である、という信仰があり、人間にとって原初的な活動であるダンスを芸術に位置づけようとするために、身体の外にその存在価値を求めようとする志向がある。要するに、頭で考えたことを表現することが偉い、という価値観があるのだ。
そんな信仰も価値観も僕たちには必要ない。
言葉の誤用を改めることも僕たちの使命である。
9(nine) 多摩美術大学レクチャーに関連して [ dance , nine ]
「9(nine)」多摩美術大学新図書館公演に先立つレクチャー(2007/5/19, 2007/6/9)の講師をつとめていただく木村覚氏、國吉和子氏から、今回のイベントに向けての文章です。
新作の稽古+代表作と最近作をフルヴァージョンで見ること--それは、現在注目の作家・大橋可也の芸術観や方法論に迫るチャンスであるばかりか、いまの日本で起きているダンス・ムーヴメントの最も濃密な部分に触れる絶好の機会となるに違いない。なぜ、いまこうしたアプローチを「ダンス」と呼ぶのか?その発端である60年代のアメリカに登場したポスト・モダンダンスと照らし合わせながら、ダンス系アートの現在と過去を解明してゆく。(木村覚)
私は大橋可也を舞踏家だと思っていた。その後、彼は競輪の選手なんだ、と思いなおし、今は演出家だと確信している。演出家は普通観客の前に姿を現さない。が、大橋はいつも会場のどこかで必ず観客を見ている。さりげなく会場に紛れ込んでいる様子は、まるで何食わぬ顔で犯罪現場に戻ってきた下手人のようだ。この度は図書館エントランスの不安な傾斜の上だ。彼の遠近法はダイナミックに歪むだろう。(國吉和子)
【レクチャー講師プロフィール】
木村覚(きむら・さとる)
1971年、千葉県生まれ。美学研究者として多摩美術大学、国士舘大学、専修大学で非常勤講師を務める。その一方で、ダンスを中心としたシアターをめぐる批評活動を『美術手帖』やwonderland(web)等の誌上で行う。2007年2月に横浜・急な坂スタジオで行った8回シリーズ『超詳解!20世紀ダンス入門』の構成・司会・講師を担当するなど、今年はダンス史を解明するレクチャーに精力的に取り組んでいる。
Sato Site on the Web Side
イベント告知
國吉和子(くによし・かずこ)
舞踊評論、研究。現在、早稲田大学、多摩美術大学非常勤講師。
著書『夢の衣裳、記憶の壺――舞踊とモダニズム』(新書館)
市川雅遺稿集『見ることとの距離 ダンスの軌跡1962-1996』(新書館)を編集。
ダンス蛇の穴(仮称) [ dance ]
最近、更新が滞っている。
作品制作の時期になると、それ以外のことについて考える余裕がなくなる。いや、実際には余裕がないわけではなくて、甘えているのだという気もする。
1つ考えていることを書く。
「ダンス蛇の穴(仮称)」というものを考えている。
大橋可也および大橋可也&ダンサーズの活動は、もっとエッジに向かうべきだと思う。広く受け入れられる必要はない。出演者、観客もコアに閉じていく、その純度を高めていくことが重要だと思う。
しかし、僕たちが考えている、社会にとって必要なダンス、ということを伝えていくためには、僕たちの活動だけでは足りない。活動の機会も少なすぎるし、単純に作品の好みということもあって、伝えたい人たちに本当に伝えられているか、という問題がある。
ダンスは必要なものだと思う。
そのことを訴え、考えていくための場を作りたい。その場では、僕たちが中心にいる必要はない。
今やっているレクチャー(第1回、第2回)もその方向性にあるものだ。
今後、レクチャーだけでなく、ダンスについて考え、次のダンスを創造していく場を作っていく。ワークショップ、ディスカッションなどを含め、出来れば毎週開催していきたい。
どのような形態であれ、アーティストがその中心にいることが重要だ。
2007年8月にはより具体的な内容を伝えることができると思う。
「蛇の穴」という名称は単に僕の好みでしかないので、よい名称があれば教えてください。
今、関心のあること [ dance ]
久しぶりの更新になりました。年度の変わり目はなんだかんだ落ち着きません。
2007年度より、セゾン文化財団の年間助成を受けることになりました。詳細はセゾン文化財団の報告資料(PDF)を参照してください。
それはもちろん、僕たちにとって、社会全体にとって、いいことです。
皆さんおめでとう。
それはさておき、今回の助成を申請するにあたり、エッセイというものを提出したのですが、せっかく書いた文章なので、ここに転載しておきます。
題は「今、関心のあること」
「今、関心のあること」大橋可也(大橋可也&ダンサーズ主宰・振付家)
はじめに
正直なところ、世の中の出来事にはほとんど関心がない。僕が関心を持つのは、自分のことだ。それも詰まるところは「自分とは何か」っていう問い、だけなのだよね。その問いは物心ついたころから持ち続けている。だから、ほとんど精神的には成長していないともいえるのだが。しかし、そんな問いに答えなどない、たぶん、のであって、今は答えに至るための方法に関心を持つことにしている。その方法は「正しく生きる、生きたい」ということ。これもまた漠然としているな。じゃあ、正しいって何か、ということから始めないと。ヨガの八枝則で最初に来るのは、ヤマ。ヤマは他者に対して守るべき行動パターンを定義していて、それらは、暴力を振るわない、盗まない、正直になる、性的欲求に溺れない、物質欲にとらわれない、の5つである。うん、これらは正しそう。逆にいったら、僕たちは、暴力を振るうこと、盗むこと、嘘をつくこと、性的欲求、物質欲、が好きなわけだ。この意見にもアイ・アグリーだ。では、僕たちが最初に好きなこと、暴力を振るう、に興味を持つのは至極リーズナブルな流れだね。ということで、僕の活動と暴力の関係を考察してみることにしよう。
暴力
多くの人々が間違って認識しているように、ひょっとしたら僕の認識が間違っているのかも知れないが、暴力とは、殴る、蹴る、などの物質的攻撃のことを指すのではない。暴力とは、ある種の関係性が成立している状態のことである。その関係性とは、強者と弱者が峻別され、弱者の意思によっては変えることができない、という状況である。そして、暴力的行為とは、強者を強者たらしめ、弱者を弱者たらしめるためにおこなわれる行為のことを指す。だから、平均的な体格の女性が平均的な体格の男性を殴ったとしても、それは暴力ではない。肉体的に優位に立つ男性が下位にある女性を殴ったとき、それは暴力的行為であり、彼らの関係性は暴力と呼ばれるのである。
連鎖
暴力は普遍的に存在している。とりわけ、現在の日本、に限らないだろうが、において重要なのは、弱者と更なる弱者の間の暴力である。夫から妻、妻から子供、子供から別の子供と、連鎖は続いている。つながりつづけるということ、それ自身が暴力の持つ特性といえるのかもしれない。
身体
連鎖する暴力は必ずしも身体を必要としない。しかしながら、暴力の存在を開示するもの、それは身体である。傷痕。更にいえば、暴力を克服するための手掛かりになるのも身体であろう。連鎖から生まれる傷が、連鎖の内側からブレーキをかけるのだ。現代に生きる僕たちは、日常生活において身体を自覚することが少なくなっている。自覚が無くても生きるに不自由はしない。せいぜい、病気になったとき、怪我をしたときぐらいしか自覚する機会、必要がないのだ。身体への意識への欠如は暴力を暗黙のうちに肯定している。傷跡を見過ごしているのだ。身体への意識を取り戻すこと、そこに鍵がある。
ダンス
身体を使って僕は自らの活動をおこなっている。そして、その活動を「ダンス」と呼ぶ。ダンスと名乗っていることの動機付けについてはここでは語らないが。ダンスを一言で言い表すなら、身体の関係性に他ならない。ここでいう身体は、自分自身のものである場合もあれば、他者のものである場合もある。ダンスは特定の身体の優位性を証明するものではない。身体の関係性を変容させ、価値観を作り直していくものだ。だからこそ、ダンスは、暴力の連鎖を止める手段に成り得るのではないか。
振付
ダンスは振付からなる。そして、振付は僕のしごとである。では、振付とは。身体の境界線を定義づけるもの、それが振付である。振付によって、自分自身の身体と他者の身体の境界線が描かれるのである。振付の手法とは、その境界線を描く道具立てのことである。どこから、どうやって境界線を描くのか。ここで、既存の社会の価値観、個人の人格から出発してはいけない。それでは、同じ境界線しか描くことはできない。感情、感覚を分解し、ブラシのエッジを際立たせることによって、新しいラインを描いていく。ゆらぎ、ぶれ、ぼかしも必要だ。身体の境界線は常に明瞭に描かれているわけではない。その境界線によって、暴力の連鎖をせきとめ、迂回させたい。
結び
世の人々のために何か意味あることをすること、それが「正しく生きる」ことなのだろう。だから、僕は自分がやっていることの意味づけを探す。だから、ダンスって何、という問いかけについても、ダンスと呼ばれるものが、どのように意味があるか、という視点から考えなくてはいけない。そう、意味がないものはダンスって呼ばないのではないの。僕はダンスと、ダンスによって正しく生きたい。それが、今、関心を持っていることだし、これからも関心を持ち続けたいことだと思う。
ある稽古の方法 [ dance ]
先週土曜日は木村覚さんを招いてのレクチャーを開催した。
内容としては「ジャドソンダンスシアター」にフォーカスしたもので、それ自体興味深いものだったが、そのことについては改めて書くことにしたい。
ここでは、なぜ僕たちの稽古場でレクチャーなのか、ということについて書く。
ここのところ、ダンスについての言葉が足りない、ということをあらゆる場所で言っている。足りないのは、見る側、観客、批評家にとってでもあり、作る側、ダンサー、振付家にとってでもである。だから、見る側も作る側の関係が、特定の作品が面白い、面白くないという程度の感想の交換に終わっているのだ。
# もちろん、面白いと思う、感じることは、ダンスを見る、作る上で欠かせない動機付けであることは大前提として
僕たちはダンスを、自分たちがおこなっていることを意味あるものにしていきたい。そのためには、僕たちが何を目指しているのか、ある作品を作るとしたら、何を課題とするのか、明確でなくてはいけない。その上で、特定の作品が達成したこと、達成できていないことを、作品と作家の評価とすることができるのだろう。
確かな言葉を持つこと、それはダンスの稽古である。
そして、稽古の方法の1つが今回のレクチャーなのだ。
【レクチャーに興味をお持ちの方へ】
原則的には非公開ですが、問い合わせいただければ詳細についてお知らせします。
レクチャーの対象者はダンサー、振付家、あるいはそれを目指す人、およびダンスの制作現場に関わっている人です。
コンテンポラリーダンスマッシュアップポータル [ dance ]
Web2.0の時代だというのに、コンテンポラリーダンスの上演機会も増えてきているというのに、いまだにインターネット上でコンテンポラリーダンスの公演、アーティスト情報をまとめて参照できるポータルサイトがない。JCDNのサイトとダンスリザーブはその種の役割を持っているが、情報公開には会員になる必要があったりとかの敷居があり、検索などの利便性にも欠けている。
じゃあ、新たにポータルサイトを作って情報を集約すればいいかというと、そうではない。新たに作ったところで情報をそこに登録しなければならないし、サイトを閲覧する人を誘導していく活動も必要になる。そんなコストを掛けられるほど僕たちは裕福じゃない。
実のところ、必要な情報は既にアーティストや劇場のホームページかブログに存在している。
そう、マッシュアップですよ。
世の中にはPlaggerとかあるらしい。チャレンジしてみるか。
コンテンポラリーダンスマッシュアップポータルの概念図を書いてみた。
あくまでアーティストが主体であるというのが肝心。そこに観客などのステークホルダーがその立場から関わりを持つことが出来るようにする。
本当はこのエントリを書く前にこのシステムのアルファ版ぐらいは作ろうと思っていたのだけど、1時間ぐらいで断念しました。自分の技術力と根気の無さに少し落胆を覚えています。
このエントリもアップするまでに2週間ぐらいかかってしまった。
どなたか協力してくれると嬉しいです。欲しいのは以下のような人材です。
1. コーディングスキル(Perlかな)のある人
2. 1は無くても、自由に使える時間のある人
3. 1も2も無くても、アイデアのある人
4. 1も2も3も無くても、ダンスに関わっているか興味を持っている人
このシステムは繰り返し書いているアーティストが作るメディアの実現例の1つです。
その存在が害でしかない芸術作品もある、という現実にアーティストはどう直面するべきか [ dance ]
僕はアーティストなので、芸術の可能性を信じている。すべての芸術作品は存在意義があると思うし、そう思いたい。
しかしながら、その存在意義を認めたくない作品もあるのだ。
劇団解体社の公演「要塞にて」を観にいった。理由はある演劇批評家の方に薦められたからである。
僕の作品と解体社の作品には親和性がある、それは認めよう。いや向こうのほうが有名なわけで、そんな偉そうな態度はとりませんよ。喩えていただけれるだけで喜ぶべきか。
いえいえ、作風だとか作品の要素だとかはどうでもいい話。
芸術だからといってやっていいことと悪いことがあるでしょう。
「要塞にて」ではビデオによるテロップが流れる。その中の一部分は従軍慰安婦に関するものだ。その文章は従軍慰安婦は日本政府が公式に強制的におこなった制度だと訴えている。
# 文言は正確ではない
これは正しくない。安部首相が最近発言したとおり、強制があったという証拠はない、のが歴史的事実だ。
僕は従軍慰安婦問題について語りたいわけではない。
彼らが、解体社がその問題を扱うやり方について異議を唱えたいだけだ。
なぜ、その問題を作品で使うのか。
理由は簡単だろう。物議をかもす問題を取り上げることで作品に緊張感を加えたいだけだ。
もし、作品によって社会問題を世にアピールしたいのであれば、スピルバークが、イーストウッドがそうしているように、エンターテインメントとしてより多くの人々に問題を知ってもらうようにする方法がある。あるいは、その問題を加工することなく、取り上げるべきだろう。
1行、2行のテロップで何が伝わるというのか。何が理解できるというのか。
問題に対する誤解を増幅させるだけでしかない。しかも限られた観客層の中で。
少なくともこれだけは言える。
解体社の姿勢は従軍慰安婦問題に真摯に関わっているすべての人々に対する冒涜である。
そして、すべての芸術に対する冒涜である。
アーティストである僕はその姿勢をけっして許したくない。
なぜアーティストは貧乏なのか? [ dance ]
まだ読み終わっていませんが、お薦めします。
著者はオランダ人のアーティストで、かつ経済学者であるとのこと。
本の内容もヨーロッパにおける芸術事情に基づいている。
なのだが、日本の舞台芸術関係者が読んだとしても、思い当たること100連発でしょう。
芸術には神話がある。
- 芸術は神聖である。
- 芸術を通じてアーティストと芸術消費者は神聖な世界とかかわる。
- 芸術は縁遠くて余計なものである。
- 芸術は贈与である。
- アーティストには天賦の才がある。
- 芸術は一般の利益に奉仕する。
- 芸術は人々のためになる。
- アーティストは自律的である。すわなち、他の職業は自律的ではない。
- 芸術には表現の自由がある。
- 芸術作品は本物であり、アーティストはその唯一の創造者である。他の職業にはそのような本物らしさはない。
- 本物の作品創造は果てしない個人的満足を与える。
- アーティストは無私で芸術に奉仕する。
- アーティストはひたすら内的に動機づけられている。
- 金銭と商取引は芸術の価値を貶める。
- コストと需要から解放されたときにのみ、芸術的な特質が生まれる。
- アーティストは耐えなければならない。
- 才能は生まれつきのもの、あるいは神が授けたものである。
- 誰もが才能に恵まれるチャンスを平等に持っている。
- 芸術的才能はそのキャリアの終盤になって初めて現れる。
- ずば抜けた才能は稀なので、アーティストを蓄えた巨大なプールがあって初めて、ごくわずかの飛び抜けた才能あるアーティストを社会に供給することができる。
- 成功は才能ともっぱら献身にかかっている。
- 芸術は自由である。他の職業に厳然としてある障壁はない。
- 成功したアーティストには独学の者もいる。
- 天賦の才、献身、平等なチャンスが芸術にはある。すなわち、最高の者が勝ち残る。
- 最高の者が勝つために、芸術は民主的で公正である。
- 数人のアーティストが稼ぐ高額な収入は正当なものである。
その神話ゆえに芸術が理解されない、アーティスト自身が勘違いをしてしまうことがあるのだろう。
僕たちがやっているコンテンポラリーダンスは文字通り、今僕たちが住んでいる社会の反映である。だから、僕たちがどうやって生きているのか、金を得ているのか、は作品性、作家性とけっして無縁ではない。
にもかかわらず、ダンスを取り巻く経済事情も、アーティスト、制作者以外には知られないままだ。
その状況でいいとは思わない。
金と芸術について考える機会を、アーティストから、作りたい。
まずは「金と芸術」の読書会でもやろうか。
無感動という体験から目を背けない [ dance ]
作品の内容については書かない、と書いたのだが、ニブロール「no direction。」についての感想を書いておく。
コンテンポラリーダンスという狭い業界の中で、他のアーティストの作品に対して否定的な意見を表明することの意味に疑問を感じないわけではない。足を引っ張り合うっていうことに。だが、彼らは評価を得ている、観客が来ている、助成金をもらっているカンパニーなのだから、否定的な意見を表すことにも意味はあるだろう。
# これまでにもずいぶん否定的な表現を使っているように思えるかも知れませんが、それは僕の表現が稚拙なせいであって、共感できるアーティスト、作品しか取り上げていないつもりです。
全体的な印象
いい大人がその財力を使って高校全国演劇大会に無理やりエントリーしてしまった。
その耐え難いダサさ
僕が以前にニブロールの作品を見たのは1999年だけである。そのころから矢内原美邦が才能ある振付家であること、その大胆さと情熱については理解していたつもりだ。と同時に、その作品世界、とその世界を構成する要素のダサさは当時から全開であった。
おそらくは、そのダサさが親近感を生んでいたのではないかと思う。確かに僕もそのような感情を持ったのは事実なのだ。
で、今回の作品ではどうだったか。そのダサさが遥かにグレードアップ、スケールアップしていたのだった。
やっていること自体は変わっていないと思う。だが、ここまでダサさが圧倒的だともうこちらの感覚が麻痺してしまう。何も感じる、考える気力が失われてしまう。
それが狙いだとすれば、なんと空虚な体験なのか、観客である僕たちにとって。
そのモチベーションの不思議さ
多分、衣装なんかは、あえてそのダサさを前面に出しているような気がする。音楽についてもそう。粗製乱造を狙っているというか。ただし、時折、審美的に良いと感じられるシーケンスがあったりするので、乱造ぶりがぼやけてしまい、かえって作品全体のダサさを強調することになっているのだが。
しかし、映像とかセリフとか振りは、どこからそれらを作ろうという動機付けが生まれるのか理解できない。ましてや、その動機付けを公演を上演するまで維持するということなど。
映像についていえば、今や普通にビデオカメラで撮ってPCを通せば見栄えのあるものが出来てしまうわけで、よほどの批評性を持たないと、映像作家として作品を作ることに耐えられないのではないかと想像してしまう。
みんな、もっと生産的なことに労力を使いませんか。
その驚くべき寛容さ
で、東京公演を見た結果は、嫌いな要素はいっぱいあるんだけど (上述の通りテーマにはあまり共感していないし、音楽もコンテンポラリーじゃないと思う) 全体としては結構好きだという感想を持ちました。
なぜ、ここまで人はあたたかくなれるのでしょうか。人の心の美しさを感じます。
寛容であることは美徳ではある。しかし、ダメなものはダメですよ。
プロダクトに関してはね。この場合、作品については。
この寛容さと作品に対する曖昧な態度はどこからくるのか。
ダンスに関する言説の多くは、作家と作品を混同している。もちろん、作家としての評価は作品の評価と不可分である。しかしながら、作家、つまり生きている個人、に対する思い入れと、関係性などが、作品に対する正しい評価を曇らせてしまっていると思う。
結果として、作家についての言説も育っていないのではないか、というのが僕の持つ疑念である。
このことは重要なので、またあらためて書くことにしたい。
自分達の組織を分析する [ dance ]
先のエントリでも触れたが世田谷パブリックシアターでおこなわれているセミナー「観客創造にむけて~自分たちの組織を分析する」に提出したワークシートを転載する。
質問の形式についてはP.F.ドラッカーの非営利組織の自己評価手法によるらしい。
# 一部の記述については提出時より加筆した
1. 「使命(目的)」
私たちの使命(目的)は何か?
マクロ的には
世界平和を実現するため。
世界から暴力を追放するため。
ミクロ的には
作家(振付家)の自己満足のため。
2. 「観客」~現在の観客と今後の観客
<現在>
誰が観に来ているか?
(正確に把握は出来ていないが)
観客の半数
a. 出演者の知人
残り
b. コンテンポラリーダンスのファン
c. リピーター
その人たちはどこにいるか?
東京周辺でしか公演をおこなっていない関係もあり、ほとんどが東京近郊在住である。
cについては、男性(30~40代)が中心である。
※コンテンポラリーダンスの客層としては異色かもしれない。ただし彼らはほとんど1人でしか来場しないようだ。
<今後>
誰に観に来てもらいたいか?
(普通に)通勤、通学をしている人。
暴力が日常的である世界にいる人。
その人たちはどこにいるか?
どこにもいないだろうし、どこにでもいるだろう。
これから探さなくてはいけない。
前述したとおり、観客の多くは出演者の知人であるのだが、「知っている」というメンタリティは無視することができないと思う。知っている、からこそ作品の意味を難しく考えることなく自然に受け入れる心理状態が観客の側に生まれるのだ。作品性を訴えることも重要であるが単純に作家、出演者を認知させる機会を増やすことも重要であると思う。
3. 「提供物」
私たちが提供しているものは何なのか?
①強み
観客が想像し考えることが出来る作品である。
②弱み
ダンスっぽくない。
分かりやすくない。
面白くない。
③他の団体との差別化のポイント
他のコンテンポラリーダンスの団体の作品と較べるなら、子供っぽくない、大人の作品であり、社会人たちの鑑賞に堪える。
とはいえ、コンテンポラリーダンス業界自体が狭い世界なので、他団体との差別化はあまり意味がないのではないかと思う。
(追記)
初回の自己紹介のときにも言ったことですが、私たちの課題は観客を増やすことより、質のよい観客を育てることにあると思っています。
残念ながら、あえて語弊のある言い方をするなら、今のコンテンポラリーダンスの客層の質は悪いと思います。質が悪い、ということはどういうことかというと、感受性が低い、自らの言葉で考えることの出来ない観客が多い、ということです。そして、困ったことに、その観客を受容しているのが、ダンス界であり、その言説をリードしている批評家たちであると思います。別の言い方をすれば、批評家たちの貧困な言説にダンスの見かたが規定されてしまっているのではないか、という疑念をいだいています。
ダンス、特に私たちがやっているような作品、はけっして分かりやすいものではありません。だから言葉に左右されることも多いのです。と同時に、言葉による先入観さえ持たなければ、分かりやすいものであるとも言えるのです。それは、私たちの知人である観客、普通の会社員たち、の意見を聞いても明らかなことです。
では、私たちは、どのようにダンスを広める、そのための言説を作り上げる、のか。
そのことを考えていきたいし、実践していく必要があります。
そのための具体的な施策についてはこれから明らかにしていきます。
話すこと、ダンスを取り巻く世界のこどもっぽさ [ dance ]
3/2にニブロール公演「no direction」を観にいった。作品について書きたいことはない。この日の公演終了後におこなわれたアフタートークに関連したことを書く。
アフタートークって何でやるんですかね。僕がアフタートークに残った動機付けもただその疑問に尽きる。
トークの出席者である小崎哲哉氏は「こどもっぽい」という形容を何回か使った。その用法は一般的な使われ方と同じく否定的な意味合いであったと思う。
いや、君が、小崎さんが、今そこでいる状況がこどもっぽいじゃないの。君たちは砂場で遊んでいるこどもたちにしか見えないよ。
その場で何を目的としてそこに立ち、座りでもいいが、何を話すのか。君たちは何も考えていない。
その自覚すらない。
ダンスを伝えるためには作品を上演するだけでは足りないと思う。伝わらないと思う。ダンスについて話す機会も必要だと思う。
だからこそ、話すことについては慎重にならなくてはいけない。考えなくてはいけない。
不用意な会話は特定の作品、公演のみならず、すべてのダンスにとって害となる。
話す機会、それがアフタートークであるとすれば、それが作品を補完するものなのか、観客へのファンサービスなのか、明確でなくてはいけない。
その問題意識はトークの主催者、出席者もすべて明確にしていなければならない。それが分かっていない、曖昧な人は参加するべきではない。
何より、アーティストが考えよ。人任せにするな。
つなぐ [ dance ]
週末は、手塚夏子の自宅カフェ&バーにおじゃました。
彼女は自身のアーティストとしての活動のみならず、アーティストを結び付ける活動をやっていてカフェ&バーもその活動の一環といえる。
今の日本のコンテンポラリーダンスのシーンでは、アーティスト達はそれぞれの孤独な作業に追われていて、ダンスを語る言葉は創作の現場の外から、批評家、制作者、観客などからしか発せられない。そのため、アーティストは自分自身の作品の意味、社会性についてすら、考えること、発信することを放棄してしまっているのではないだろうか。アーティストにはもっと考えること、発信すること、つまり言葉にするということ、が必要だ。
そのためには、アーティスト同士がそれぞれが抱えている問題について気軽に話し合う機会も必要だろう。それは多くのアーティストも思っていることのようだ。と同時に、具体的な、目に見える動きを、そのような場から作っていかなくてはいけない。少しずつ、一歩一歩。直近の目標を決めよう。

