今、関心のあること
April 6, 2007
今、関心のあること [ dance ]
久しぶりの更新になりました。年度の変わり目はなんだかんだ落ち着きません。
2007年度より、セゾン文化財団の年間助成を受けることになりました。詳細はセゾン文化財団の報告資料(PDF)を参照してください。
それはもちろん、僕たちにとって、社会全体にとって、いいことです。
皆さんおめでとう。
それはさておき、今回の助成を申請するにあたり、エッセイというものを提出したのですが、せっかく書いた文章なので、ここに転載しておきます。
題は「今、関心のあること」
「今、関心のあること」大橋可也(大橋可也&ダンサーズ主宰・振付家)
はじめに
正直なところ、世の中の出来事にはほとんど関心がない。僕が関心を持つのは、自分のことだ。それも詰まるところは「自分とは何か」っていう問い、だけなのだよね。その問いは物心ついたころから持ち続けている。だから、ほとんど精神的には成長していないともいえるのだが。しかし、そんな問いに答えなどない、たぶん、のであって、今は答えに至るための方法に関心を持つことにしている。その方法は「正しく生きる、生きたい」ということ。これもまた漠然としているな。じゃあ、正しいって何か、ということから始めないと。ヨガの八枝則で最初に来るのは、ヤマ。ヤマは他者に対して守るべき行動パターンを定義していて、それらは、暴力を振るわない、盗まない、正直になる、性的欲求に溺れない、物質欲にとらわれない、の5つである。うん、これらは正しそう。逆にいったら、僕たちは、暴力を振るうこと、盗むこと、嘘をつくこと、性的欲求、物質欲、が好きなわけだ。この意見にもアイ・アグリーだ。では、僕たちが最初に好きなこと、暴力を振るう、に興味を持つのは至極リーズナブルな流れだね。ということで、僕の活動と暴力の関係を考察してみることにしよう。
暴力
多くの人々が間違って認識しているように、ひょっとしたら僕の認識が間違っているのかも知れないが、暴力とは、殴る、蹴る、などの物質的攻撃のことを指すのではない。暴力とは、ある種の関係性が成立している状態のことである。その関係性とは、強者と弱者が峻別され、弱者の意思によっては変えることができない、という状況である。そして、暴力的行為とは、強者を強者たらしめ、弱者を弱者たらしめるためにおこなわれる行為のことを指す。だから、平均的な体格の女性が平均的な体格の男性を殴ったとしても、それは暴力ではない。肉体的に優位に立つ男性が下位にある女性を殴ったとき、それは暴力的行為であり、彼らの関係性は暴力と呼ばれるのである。
連鎖
暴力は普遍的に存在している。とりわけ、現在の日本、に限らないだろうが、において重要なのは、弱者と更なる弱者の間の暴力である。夫から妻、妻から子供、子供から別の子供と、連鎖は続いている。つながりつづけるということ、それ自身が暴力の持つ特性といえるのかもしれない。
身体
連鎖する暴力は必ずしも身体を必要としない。しかしながら、暴力の存在を開示するもの、それは身体である。傷痕。更にいえば、暴力を克服するための手掛かりになるのも身体であろう。連鎖から生まれる傷が、連鎖の内側からブレーキをかけるのだ。現代に生きる僕たちは、日常生活において身体を自覚することが少なくなっている。自覚が無くても生きるに不自由はしない。せいぜい、病気になったとき、怪我をしたときぐらいしか自覚する機会、必要がないのだ。身体への意識への欠如は暴力を暗黙のうちに肯定している。傷跡を見過ごしているのだ。身体への意識を取り戻すこと、そこに鍵がある。
ダンス
身体を使って僕は自らの活動をおこなっている。そして、その活動を「ダンス」と呼ぶ。ダンスと名乗っていることの動機付けについてはここでは語らないが。ダンスを一言で言い表すなら、身体の関係性に他ならない。ここでいう身体は、自分自身のものである場合もあれば、他者のものである場合もある。ダンスは特定の身体の優位性を証明するものではない。身体の関係性を変容させ、価値観を作り直していくものだ。だからこそ、ダンスは、暴力の連鎖を止める手段に成り得るのではないか。
振付
ダンスは振付からなる。そして、振付は僕のしごとである。では、振付とは。身体の境界線を定義づけるもの、それが振付である。振付によって、自分自身の身体と他者の身体の境界線が描かれるのである。振付の手法とは、その境界線を描く道具立てのことである。どこから、どうやって境界線を描くのか。ここで、既存の社会の価値観、個人の人格から出発してはいけない。それでは、同じ境界線しか描くことはできない。感情、感覚を分解し、ブラシのエッジを際立たせることによって、新しいラインを描いていく。ゆらぎ、ぶれ、ぼかしも必要だ。身体の境界線は常に明瞭に描かれているわけではない。その境界線によって、暴力の連鎖をせきとめ、迂回させたい。
結び
世の人々のために何か意味あることをすること、それが「正しく生きる」ことなのだろう。だから、僕は自分がやっていることの意味づけを探す。だから、ダンスって何、という問いかけについても、ダンスと呼ばれるものが、どのように意味があるか、という視点から考えなくてはいけない。そう、意味がないものはダンスって呼ばないのではないの。僕はダンスと、ダンスによって正しく生きたい。それが、今、関心を持っていることだし、これからも関心を持ち続けたいことだと思う。