January 18, 2007

[ dance ]

たまには他人の作品を観た感想を書いてみる。作品を評したいわけではないので、あくまで僕の視点からの感想として。
昨年(2006年)末にアゴラ劇場で、金魚「犬の静脈に嫉妬せず」を観た。観る動機付けとしては、僕たちもアゴラでの「CLOSURES」公演を控えていたので、その参考にしたい、というのが第一ではあったのだが。その理由のため、ダンサー全員にも観劇させた。ついでにいえば、舞台面がコンクリ打ちっ放し(常設のパンチカーペットをはがした状態)だったので、同じ舞台面にしようと考えていたこともあり、良い参考になった。
もう1つの動機付けとしては、純粋に若い作家の作品に興味がある、ということ。
第一印象としては、好感が持てる、ということだろうか。振付家の鈴木ユキオ氏が自身のブログや当日プログラムに書いていたように、踊りへの懐疑に正面から立ち向かっている印象を受けた。
以下は、気づいたことなど。

ダンサーの動きとしては、身体を叩く、倒れる、首を振る、などの動きが主だ。大橋可也&ダンサーズにもよく出てくるような動きといってよい。多分、ダンスじゃない動きをやろうとすると、こうなってしまうんだろう。そこは納得。しかし、いくら激しく叩いても倒れても、リアルな痛みが伝わるわけじゃない。振付、決められた動き、なんだから限界がある。「CLOSURES」では皆木は肋骨を折っていた。倒れる稽古をしての結果なのだが、だからといって痛みが伝わったか、というと疑問であり、肋骨を折っているという情報を伝えたとしても、あー大変ね、あるいは、バカじゃないの、ぐらいの印象しか持たれないと思う。僕自身の印象にしてからそうだ。より明確な方法論が必要だろう。それは僕にとっても同じ課題である。

コンタクト。ダンサー同士の接触がある。これは僕はやらない。全部やらないわけではないので、やるケースについては後ほど書く。コンタクトも諸刃の刃だ。激しくやればやるほど、プロレス(特にルチャリブレ)などに近づいていってしまう。プロレスが悪いとは思わない。僕はプロレスは大好きだし、レスラーには敬意を抱いている、とともに、彼ら痛みの専門職には敵わない、のだと思う。僕たちには別の方法論が必要だ。
更に、男女のコンタクトがある。女が男を抱えて投げる。作家の意図は分からないが、これは意味がないと思う。単なるダンスの振付にしか見えない。逆なら意味がある。男が女を抱えて投げる、コンクリの床に叩きつける、のなら。そうすれば暴力となる。
で、僕がやるコンタクトのケースは、「CLOSURES」で用いたように、特権的な力を持った人物が他の人物を操作する、というものだ。コンタクトにおいては接触以前にダンサーそれぞれの関係性を明らかにしておく必要がある。接触によって関係性が変わる、変わらないにせよ、そうしないと単なる動きとなってしまう。動きそのものを主題としているのならそれでよいだろうが。

場面転換。これはまったく理解できない。僕も和栗由紀夫+好善社の公演に出ていたので、舞踏の作品構成については理解しているつもりだし、シーンを分け、その場面における演者の役割を決めてつくる、というやり方は分からないわけではない。舞踏特有なのではなくダンスにおいて一般的な作り方かもしれないが。しかしながら、今回の金魚の作品では場面転換は意味を成してなかったと思う。
舞台上にいるダンサーは誰なのか、何なのか。場面転換によってその存在は切断され、見えなくなってしまう。その存在が見たいのに。
僕は場面転換はやらない。シーンを分けて作ることもあるが、その時もダンサーの存在は同じであり続けている。その存在とその変化こそがダンスだと思うのだ。

posted by Kakuya Ohashi at 2007/01/18 21:21:53 | TrackBack
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