身体の空虚さ
January 19, 2007
身体の空虚さ [ dance ]
1/17(水)にクラシックスでおこなわれた灰野敬二(音楽)/居上紗笈(ダンス)のイベントを観に行った。目的は近々クラシックスでおこなわれるイベントに自分たちが出るからで、その下見である。
まず、下見の感想。
クラシックスはかつてのジャンジャンの跡地にあるという事前の認識だったので、ある程度の広さはあるのだろうかと思っていたが、狭い。旧ジャンジャンの楽屋、倉庫スペースなのだろうか。狭い教室みたいなもので、とうてい踊りを見るには適さない。
僕たちがやることはこれから考える、そうこれからなのだが、コンセプトが明確なもの、大橋可也&ダンサーズだと一目で分かるものにしないといけないと思う。音楽のイベントだが、おそらく音は使わない。音があると身体を見なくなってしまう。
あとは、イベントを見ての気づき。
今さらながら灰野敬二氏のパフォーマンスは初めて見たのだった。予想していたとおり、面白かった。色々なものたちを使っての音出し、音自体もさることながら、その身体の明晰さ。一見、挙動不審な、でたらめな動きは、ぶれがない、迷いがない。
それもそのはずである。ミュージシャンは音だけをイメージしていて身体をイメージしているわけではない。言葉を替えると身体動作の目的性が明確なのだ。
翻ってみるに、ダンサーの身体のなんと空虚なことか。ダンスにおける身体動作は基本的に無目的である。徒手空拳というが、その身体は寄るところなく移ろいやすい。
ダンサーの身体とそれ以外の目的を持った身体、これらを並列に配置することは、ダンスに取り組む僕たちにとって大きな危険性をはらんでいる。空虚な身体はいつでもかき消されてしまうだろう。
しかしながら、ダンスの本質とは、まさしくその空虚さに他ならない。空虚さによってこそ、ダンスをおこなうもの、見るものに、無限のイメージの扉を開くのだ。
空虚さを扱うことに注意をはらうこと。