山脈
February 16, 2007
山脈 [ dance ]
少し日が開いてしまったが、2007/2/3に、こまばアゴラ劇場で上演された神村恵カンパニー「山脈」の感想を書く。
神村恵は、大橋可也&ダンサーズの作品に出ているからという理由からではなく、そのダンスに対する懐疑の姿勢、動きへのこだわりから、今の日本のダンスの可能性を考える上で欠かせない作家の1人である。
はじめてのカンパニー作品「山脈」には僕も刺激を受けたいという気持ちを持って観に行った。
まずは印象に残ったところから。
やはり神村の走る姿は良い。ダイナミックだが無理がない。そこに気づいていた僕は自分の作品にも既にその姿を使っていたのだが。
作品中盤に神村と4人のダンサーが向かい合ったシーンは、より大きな関係性への発展を期待させた。しかし、その後、他のダンサーも同じような配置となったのはその印象を打ち消すもので、残念に感じたのだった。
次に、思ったこと、疑問に感じたことを書いてみる。作品と直接結びつかないこともあるが、考えることが出来るのは、それだけ良い作品であったということなのだろう。
幾何学的
アフタートークで批評家の武藤大祐氏が言っていたことであるが、「幾何学的」なシーンがある。神村はそれを「好きだから」という理由で採用したと言っていた。
幾何学的、というのは比喩に過ぎないのだろう。幾何学に基づいて振付を考えているわけではない、おそらく、と思う。
では、幾何学的とは。その比喩が持つ意味とは。
僕には分からない。
分かるのは幾何学的であってもなくても、ある造形、空間配置が連想させる関係性である。その関係性にこそ興味がある。幾何学的という比喩は必要だろうか。
群舞
なぜ、ダンスでは皆で同じ動きをするのだろう?それがダンスだといえばそうなのだろうし、それが振りであるといえばそうなのだろうが。
教育的な意味はあると思う、皆で同じ動きをすることの。
しかし、ダンス作品の中に現れる同じ動きの意味とは。
これもよく分からない。
僕も同じ動きをするという振りを取り入れたことはあるが、あくまでダンス的なことのパロディーであった。今はそんなことをする必要はないからやらない。
では、どうして作家はチョイスしたのか、これは聞いてみたい。
表情
開演当初、舞台上のダンサーたちの表情は硬かった。初日だったこと、客入れに時間を要し開演が押したことが影響したのだろうが、その表情が空間全体を凍りつけてしまっていた。いろいろ動きがあったにしても空間は動かないままだった。
作品中盤でダンサーたちが走り出してから、当然ながら心拍数が上がることもあり、表情は緩んできて、それとともに空間もダイナミックに変貌してきた。
表情に重きを置いていない作品、おそらくは、にも関わらず、こうも表情の変化が作品に影響するとは、僕にも新たな発見であった。当たり前のことかも知れないが、表情も振付の、作品の一部なのだ。
これも作家の意図を聞いてみたい。
平等
ほとんどのシーンでダンサーたちは平等な存在だったと思う。しかし、そのことがダンサー個々の存在を薄くしてしまったように感じられた。
世の中にほんとうに平等な関係性などあるのだろうか。平等でないからこそ、流れが生まれる。
沈黙
動きへのこだわりに反して、照明や音響についてはその必然性を感じなかった。そこまでコントロール出来なかった、あるいは意図してしなかった、ということであろうが。
語りえないことについては、沈黙するほかない。
沈黙こそ僕たちに必要なことなのではないだろうか。