赤木智弘
October 23, 2008
赤木智弘 [ empire_paper ]
「幸福と変化とオルタナティブ」
眠い目をこすりながら身支度を整え、うまく整わないネクタイの結び目にいらつきながら駅に向かう。同じような生活に飽き飽きしているであろう同胞たちと同じ電車に詰め込まれ、会社で適当に仕事をこなす。
疲れて家に帰れば、近所付き合いの愚痴をわめき散らす妻と、言うことを聞かない子供に内心毒づきながら、発泡酒を煽る。
そんな、当の本人がどう思っていようが、それはそれで幸せな、とてもありきたりな生活。
私たちはそんな日常が明日も続くのだと信じている。
しかし、人生はそれほど単純にはできていない。
会社が潰れるかもしれないし、離婚をするかもしれない、そして子供を事故などによって失うかもしれない。
幸せであればあるほど、そうした突発的な不幸から自分たちの幸せを守ろうと、過剰に身構える。
会社に終身雇用と安定した昇給を要求し、人生設計の通りに社会が発展することを期待する。
昨今の安全安心に対する欲求、特に子供の安心安全に対する国民からのオーダーには、幸せな家族を国民総出で守るべきだとする意思が感じられる。
町中に監視カメラを設置し、住民総出で登下校を見守る。インターネットの掲示板に少しでもおかしな書込みがあれば、誰かしらが警察に通報し、子供たちを、幸せな家族を守ろうとしている。
一見、それは当たり前の感情に思われる。
だが、私はそれは当たり前の感情ではあっても、通って当然の要求だとは思わない。
人生から偶発的な事件をすべて排除し、悲劇を避け続けるなど、できるはずなどない。
私たちは社会という、多くの他者と触れあわざるを得ない社会で生きているのだ。
偶発性を排除するということは、他人を排除するというのと同じである。
それはヒキコモリと同じなのではないかと、私は思う。
監視カメラや地域、そして会社や終身雇用に守られたヒキコモリ家族。
みんなが細々と現状を守るだけの、内向きに閉じた社会は、なんの発展性のない、縮小のスパイラルに陥っていく。
ならば変化を求めれば、社会がどんどん開いていって、みんなが幸せあふれる社会になれるのだろうか。
だが、変化はあくまでも変化に過ぎず、幸せな結実を約束するものでは決してない。
変化は幸運を産み出すかもしれないが、当然のように悲劇をも産み出す。
しかし、そうした個人レベルでの小さな悲劇は、極めて自然にやがて歴史の大きな流れに収拾されていく。
まぁ、小さな悲劇といっても、その当人にとっては人生を失いかねない大きな悲劇なのだけれども。
私が誰かを愛すれば、誰かも私を愛してくれる。一生懸命がんばれば、願いはかなう。
今の社会には、そんなストレートな歌やドラマが満ちあふれている。
たまにそういう作品を見聞きするのはいいけど、そんなのばっかりでは辟易してしまう。
努力が結果に結実するという理想は、結果の伴わない人間は努力をしていないのだという思想に簡単に結びつき、弱者の排除に繋がる。
本当の現実は、愛してもがんばっても、その結果は保証されない。そうなっている。
私がダンスや演劇、小説やアニメやゲーム、そのような各種の創作物に意識的に触れようとするときに求めるのは、人間があがき苦しむ現実を、濃密な形で私たちの前に暴露してくれることなのだ。
作品の中で生きる人たちが、現実の人間の替わりに、辛い現実にぶち当たってくれる。そして、現実の私たちに「今ココではない別の生き方」を提示してくれる。
私たちは表現される仮想の他人を通じて、それを自らの人生経験として吸収することができる。実際の痛みを感じずとも、豊かな経験を手に入れることができるのである。
私は、創作物には、私たちが触れている現実と、そこから変化したオルタナティブを、結びつける意味があると感じている。
「今ココ」という恒常性を守り続けようとして、内側にこもりがちな社会に対して、変化の可能性を示し、変化に対する覚悟というか、既視感をつくりだし、例え急激で不幸な変化があったとしても、それに耐えて、その変化を受け入れていく感情を形作るための抗体となる。それによって、避けがたい変化を、心静かに受け入れることができるようになる。
私たちの生活は、決してガチガチに固まったコンクリートの上に成り立っているのではない。
大半の人たちは薄氷の氷の上に、たまたま運良く立つことができているに過ぎない。
しかし、それこそが人生であり、私たちはそれを受け入れて生活するしかない。
そうした生き方は、これから老後に至るまでの生活をガチガチに固めて確定させる、安定という欲望よりも、極めて人間的で自然な生き方ではないだろうか?
私たちの社会では、いつだって物は壊れるし、人は死ぬ。
そのことを生活の前提だと考えることができるのであれば、私たちは幸運ではないかもしれないけれども、過剰に不安を囲い込むこともないのではないか。
今現在、幸福である私たちが、いつか不幸を背負い込んだときに、そうした不幸を自分の精神の中で昇華し、新しい生活を力強く生きていくことができるために、いつだって表現物は必要とされているのだ。
私は、そう考えている。
赤木智弘(あかぎともひろ):
フリーライター。1975年栃木県生まれ。『論座』(朝日新聞社)2007年1月号に掲載された『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争』で注目を浴びる。著書に『若者を見殺しにする国』(双風舎)がある。