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フリーペーパー「帝国、エアリアル」
「帝国ペーパー」スタッフ [ empire_paper ]
フリーペーパー「帝国、エアリアル」のスタッフを紹介します。
編集、デザインを手がけたメンバーの多くは佐々木敦氏が塾長を努めるBRAINZの第一期から生まれた批評集「アラザル」(大橋可也も寄稿)に携わったメンバーです。
このフリーペーパーも多くの人たちとの出会いの中で生まれました。ペーパーからさらに新たな出会いが生まれることを期待しています。
編集長:熊谷歩
編集委員:友兼亜樹彦、菅原靖志、近藤久志、西中賢治、江夏令奈(大橋可也&ダンサーズ)
デザイン:黒川直樹
赤木智弘 [ empire_paper ]
「幸福と変化とオルタナティブ」
眠い目をこすりながら身支度を整え、うまく整わないネクタイの結び目にいらつきながら駅に向かう。同じような生活に飽き飽きしているであろう同胞たちと同じ電車に詰め込まれ、会社で適当に仕事をこなす。
疲れて家に帰れば、近所付き合いの愚痴をわめき散らす妻と、言うことを聞かない子供に内心毒づきながら、発泡酒を煽る。
そんな、当の本人がどう思っていようが、それはそれで幸せな、とてもありきたりな生活。
私たちはそんな日常が明日も続くのだと信じている。
しかし、人生はそれほど単純にはできていない。
会社が潰れるかもしれないし、離婚をするかもしれない、そして子供を事故などによって失うかもしれない。
幸せであればあるほど、そうした突発的な不幸から自分たちの幸せを守ろうと、過剰に身構える。
会社に終身雇用と安定した昇給を要求し、人生設計の通りに社会が発展することを期待する。
昨今の安全安心に対する欲求、特に子供の安心安全に対する国民からのオーダーには、幸せな家族を国民総出で守るべきだとする意思が感じられる。
町中に監視カメラを設置し、住民総出で登下校を見守る。インターネットの掲示板に少しでもおかしな書込みがあれば、誰かしらが警察に通報し、子供たちを、幸せな家族を守ろうとしている。
一見、それは当たり前の感情に思われる。
だが、私はそれは当たり前の感情ではあっても、通って当然の要求だとは思わない。
人生から偶発的な事件をすべて排除し、悲劇を避け続けるなど、できるはずなどない。
私たちは社会という、多くの他者と触れあわざるを得ない社会で生きているのだ。
偶発性を排除するということは、他人を排除するというのと同じである。
それはヒキコモリと同じなのではないかと、私は思う。
監視カメラや地域、そして会社や終身雇用に守られたヒキコモリ家族。
みんなが細々と現状を守るだけの、内向きに閉じた社会は、なんの発展性のない、縮小のスパイラルに陥っていく。
ならば変化を求めれば、社会がどんどん開いていって、みんなが幸せあふれる社会になれるのだろうか。
だが、変化はあくまでも変化に過ぎず、幸せな結実を約束するものでは決してない。
変化は幸運を産み出すかもしれないが、当然のように悲劇をも産み出す。
しかし、そうした個人レベルでの小さな悲劇は、極めて自然にやがて歴史の大きな流れに収拾されていく。
まぁ、小さな悲劇といっても、その当人にとっては人生を失いかねない大きな悲劇なのだけれども。
私が誰かを愛すれば、誰かも私を愛してくれる。一生懸命がんばれば、願いはかなう。
今の社会には、そんなストレートな歌やドラマが満ちあふれている。
たまにそういう作品を見聞きするのはいいけど、そんなのばっかりでは辟易してしまう。
努力が結果に結実するという理想は、結果の伴わない人間は努力をしていないのだという思想に簡単に結びつき、弱者の排除に繋がる。
本当の現実は、愛してもがんばっても、その結果は保証されない。そうなっている。
私がダンスや演劇、小説やアニメやゲーム、そのような各種の創作物に意識的に触れようとするときに求めるのは、人間があがき苦しむ現実を、濃密な形で私たちの前に暴露してくれることなのだ。
作品の中で生きる人たちが、現実の人間の替わりに、辛い現実にぶち当たってくれる。そして、現実の私たちに「今ココではない別の生き方」を提示してくれる。
私たちは表現される仮想の他人を通じて、それを自らの人生経験として吸収することができる。実際の痛みを感じずとも、豊かな経験を手に入れることができるのである。
私は、創作物には、私たちが触れている現実と、そこから変化したオルタナティブを、結びつける意味があると感じている。
「今ココ」という恒常性を守り続けようとして、内側にこもりがちな社会に対して、変化の可能性を示し、変化に対する覚悟というか、既視感をつくりだし、例え急激で不幸な変化があったとしても、それに耐えて、その変化を受け入れていく感情を形作るための抗体となる。それによって、避けがたい変化を、心静かに受け入れることができるようになる。
私たちの生活は、決してガチガチに固まったコンクリートの上に成り立っているのではない。
大半の人たちは薄氷の氷の上に、たまたま運良く立つことができているに過ぎない。
しかし、それこそが人生であり、私たちはそれを受け入れて生活するしかない。
そうした生き方は、これから老後に至るまでの生活をガチガチに固めて確定させる、安定という欲望よりも、極めて人間的で自然な生き方ではないだろうか?
私たちの社会では、いつだって物は壊れるし、人は死ぬ。
そのことを生活の前提だと考えることができるのであれば、私たちは幸運ではないかもしれないけれども、過剰に不安を囲い込むこともないのではないか。
今現在、幸福である私たちが、いつか不幸を背負い込んだときに、そうした不幸を自分の精神の中で昇華し、新しい生活を力強く生きていくことができるために、いつだって表現物は必要とされているのだ。
私は、そう考えている。
赤木智弘(あかぎともひろ):
フリーライター。1975年栃木県生まれ。『論座』(朝日新聞社)2007年1月号に掲載された『「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争』で注目を浴びる。著書に『若者を見殺しにする国』(双風舎)がある。
大澤信亮 [ empire_paper ]
ダイアローグ×大橋可也「飢えている人に伝えたい」
大橋:僕自身はいまの社会における身体の在り方に関心があって、そこにこだわった作品を作り続けてきたわけですが、いま世の中全体がすごく保守的で、自らの手で自分たちの枠を狭めてしまっているんじゃないかと思うんです。
大澤:そうですね。90年代半ば以降から、メディアが「敵を作って叩く」タイプの言説を露骨に採用する中で、若者の保守的な感性が醸成されてきた。現在は、メディアが若者の労働問題を積極的に伝えたり、若い書き手を使ったりしていますが、そこで求められるのは「怒れる若者が敵を叩く」というアングルですね。叩く対象が変わっただけです。しかし現実には、秋葉原事件の加藤智大容疑者君が犯行前にネットの掲示板に「自分はブサイクだ」、「こんな独り言誰も聞いてない」と書き込んだように、「敵を作って叩く」というより自己否定を反復する人のほうが多い。その背景には、生活の画一性という「下部構造」もあったと思います。フリーターが労働の現場で強いられるのは、たとえば工場労働などでは同じ動き、同じ作業の繰り返しで、他者とのつながりがないんです。そんな中で、趣味や感性など、あらゆるところで毎日同じ自分の繰り返しというパターンができあがってしまう。この状況下に既存の形で表現を生み出してもなかなか伝わらない。『ロスジェネ』でやりたかったのは、現代において表現行為がいかに若者に届き得るかということでした。それで僕は小説を書いたわけです。それはメディアでも多少話題になった。でも本当に読んでほしかった加藤君のような人には届いてなかった。
大橋:いまは本当に自分を責めますよね。そこで、「敵を作る」ということもひとつの手かなとは思いますが。
大澤:「運動」をどう見るかですね。僕は、生きて働いてるんだからそれについて考え、言うべきことは言っていくのは当然だという感覚を根付かせることが「運動」の一つの達成点だと思います。そこで「敵を作る」という方法がどこまで有効なのかわからない。
大橋:まずは普通に考えていること、悩んでいることを発信できるということが一番大事ってことですね。
大澤:そうですね。ただ、大橋さんの活動に絡めて言うと、現状では、ダンスや舞踏への回路がなかなかないと思うんです。僕自身が触れる機会がなかったし。日常の反復の中にダンスや舞踏が入り込むとしたら、どのようにしてだと思われますか?
大橋:自分のからだに「気づく」ことですかね。その為に工場労働者やフリーター対象のワークショップがあっていいかもしれない。
大澤:宮澤賢治の詩の中に「衝動のやうにさへ行はれる すべての農業労働を 冷く透明な解析によって その藍いろの影といっしょに 舞踏の範囲に高めよ」という言葉があります。ある動きに価値があって、別の動きには価値がないという根拠は実はよくわからない。そこを分けるものへの「冷たく透明な解析」が必要で、それを媒介にして、反復労働自体がある種芸術的な問題に繋がってるんだという「気づき」を労働者に与えられたら面白いですね。
大橋:そうですね。
大澤:それについて言うと、『明晰の鎖』を観て、秋葉原事件を想起しました。大橋さんの作品はダンサー同士の接触が少ないわけですが、時に走り回る中でぶつかりあう場面がありますね。基本は別々に個々の行為を繰り返していて、触れ合う時には、ぶつかって倒れたり、押さえつけられたり、引っ張られたり、そういう形でしか触れ合えない。それは加藤君の現実だったと思うんです。あの事件まで彼は人と優しく触れ合うことがなかったと思う。毎日毎日同じ労働を反復した果てに、人に体当たりして刺すことでしか人と繋がれなかった。
大橋:いまの身体性ってそうだと思うんです。ただそれを届けたい対象になかなか訴えられてない。まずダンスに触れる機会を増やさないとダメだというのは大前提にあります。
大澤:現代的な身体性の一つに、オタク的な身体があると思います。『凉宮ハルヒの憂鬱』のダンスを踊るなど、彼らが身体性の回路から完全に閉ざされているわけではない。
大橋:どう働きかければいいでしょう。オタクに対してもそうだし、アニメーションという表現とダンスとの関係もそうだし。ある面で「敵」ではあるのかなと思うんです。
大澤:一見、俗っぽく見えるものでも、吸収してそれを越える価値を見出すことにも意味はあると思います。オタク的な表現の中にも確実に何かがあって、いまはそれぞれに分離され、コントローラブルなものとしてただ消費者的に回転させられてしまっている面もあるけど、そのループに入り込んで、外したり繋いだりする作業にも可能性はある。「表現」が触れてこなかった場の片隅に加藤君みたいな人がいると思うし、そこにもし寄り添うならば、「敵」という視線を入れてもいい。『ロスジェネ』もすごいバッシングされるんです。表紙もこんなだし(笑)。名前も『ロスジェネ』で「世代論かよ」って。ただ、それもこれも全部引き受けた。ギャルゲーやオタク文化に触れながら、ネットで左翼や中国、韓国を叩いて「小泉自民党最高!」って言ってる人たちに届けるべきと思ったから。そしていま一万部位売れてるんです。『ロスジェネ』を出してみて思ったのは「みんな飢えてる」ってことですね。既存の表現に満足してない。
大橋:それはすごく大事で、いろんな状況へコミットしていくべきでしょうね。みんなが飢えてる状況、労働問題などにも関わっていきたい。
大澤:じゃあ是非来年の「自由と生存のメーデー」行きましょう(笑)。喋って歩くだけで繋がりができたり、見えてくるものがある。警察の対応とかね。大橋さんのダンスにある、引っ張られるような動きは、デモの時に警察が実際にやるからね。
大橋:いっそ、デモの時にパフォーマンスもやりたいですね。メーデーをターゲットに作品を作りたい。様々な歩き方を模索したり。ひとつ具体的な方法が見えました。
大澤:12月の公演もそうですが、自分たちに向けて作られてることに気づいた時、すごく注目されると思う。そこで重要なのは「露骨にやること」だと思います。楽しみにしています。
2008年9月30日 新宿にて
聞き手:大橋可也、近藤久志、熊谷歩
大澤信亮(おおさわのぶあき):
1976年生まれ。批評家。超左翼マガジン「ロスジェネ」編集委員。有限責任事業組合「フリーターズフリー」組合員。作品に『宮澤賢治の暴力』(新潮新人賞)、『柄谷行人論』(「新潮」2008年11月号)など。
佐々木敦 [ empire_paper ]
「からだの重心がおかしくなっている」ー大橋可也&ダンサーズに関するメモー
手をふって別れた
それからホームに突き落とした
どこにも行くところがなくて
空も飛べなくて
くるしむことも
くるうこともできないぼくらは
からだの重心がおかしくなっている
ゆらゆらとフルえるヘンな生き物に
なって(いる(いない(かもしれない
ー渡辺玄英「けるけるとケータイが鳴く(毎日新聞ばーじょん)」ー
まったく偶々のことではあるのだが(だが「まったく偶々」などということは本当は無い)、大橋可也&ダンサーズについて考えようとしていた時に、渡辺玄英の新詩集『けるけるとケータイが鳴く』が届けられ、繙くうちに、そこに記されたことばたちが、今年の二月に吉祥寺シアターで『明晰の鎖』を観た際の紛れもない衝撃を、まざまざと思い出させた。冒頭に置いたのは同書からの引用だが、だってこれはまるで、あそこに在った「からだ」たちのようではないか?
私が『明晰の鎖』から受けた衝撃とは、まず第一に「即物性」ということだった。ビデオを多用しているのにもかかわらず、いやむしろ、ビデオキャメラという記録メディア/表象のテクノロジーを駆使しているからこそ、そこに恐ろしくリアルに立ち現われる、モノとしての身体、ブツとしての行為に、したたかに震撼させられた。
『明晰の鎖』を観た日のブログに、私はこう書いている(一部省略)。
大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」とヤン・ファーブル「死の天使」をはしごしました。「明晰」は非常によかったです。僕なりに大橋さんが「ダンス」ということでやろうとしていることを、やっと理解できたような気がしました。身体と肉体の違いの問題、表象と上演の違いの問題、物語と物語る行為の違いの問題、などなどが、きわめて直截的に、即物的に、明晰に問われていました。前評判の高かった「死の天使」は、アンディ・ウォーホルが女性に狙撃されて一命を取り留めた事件を元にファーブルがテキストを書き、イヴァナ・ヨセクが4面のビデオスクリーンに現われるウィリアム・フォーサイスと共演する、というかなりアクロバティックな作品。当然のごとく完成度は異様に高かったのですが、僕的にはいささか文学的、芸術的に過ぎるような気もしてしまいました。観念的な「死」の(「死」の観念の)追求よりも、誰も知らない女が誰も知らない女を刺した、という、ある意味で極めて通俗的な出来事を、ひたすら強迫的に反復し続ける「明晰の鎖」の方に、リアリティを感じてしまったのです。
「誰も知らない女が誰も知らない女を刺した」という、あまりに素っ気のない、ぶっきらぼうでさえあるような、おそらくはありきたりの、だがあからさまに取り返しのつかない出来事(のようなこと)は、もちろん舞台上で真に起こっているわけではない。ある意味では、そのようなことが演じられていたのでさえないのだ。ただ、そのような身振りと、それを行なう「からだ」があった、ということなのだが、それでもなお、そこには異様といってよい生々しさと禍々しさが宿っていた。それは演技や表象といった概念では割り切れない、極度に明晰な現前としての「出来事=事件」だった。つまりそれは、要するに現実の事件もこのように起こるのだ、と無根拠に確信させるようなものだったのである。
先のブログの短いエントリでは舌足らずなので、少しパラフレーズしてみよう。まず「身体と肉体の違い」について。生身の「からだ」という意味での体を「肉体」と呼び、それを含み/それに含まれながらも、もう少し抽象的な「私」の外延と内包の様態を「身体」と仮に呼ぶ。たとえばダンサーは前者によって後者のなんらかを表現する。その「表現」のベクトルや目標はそれぞれではあるが、いずれにしても「身体性」なるものをひたぶるに突き詰めてゆこうとするならば、そこに立ち上がってくる、ひとつの極限値とは、ただそこに(ここに)在る、ここに(そこに)居る、ということである。存在のゼロ度、零度の存在論としての「からだ」。しかしそのとき「身体」は、実は限りなく「肉体」に近づいている。それは戻っている、と言ってもよい。なぜなら「肉体」としての「からだ」は常に既に与えられている、すべての前提であり、あらゆる人間が逃れることのできない、まさに肉の袋としての牢獄であるのだから。
「身体性」の極限は「肉体」の顕現で在り,それは同時に「肉体性」への回収でもある。突っ立ったままの死体がけっして死んではいない以上、不動の「からだ」の獲得は、結局のところ、ぎりぎりまで至ると「表現」とは離反する。だが、そうするわけにいかない場合、奇妙なことに、というべきだと思うが、そこに在る/居る「肉体」はふたたび「身体」へと逆流する。だがそこで見出される「からだ」には、観念の澱が張り付いてしまっているのだ。ただ居る/在る、ということに、ひとはそれ以上の・それ以外の意味を付与しないでいられない。そこにどうしても意味を探し出せないのならば、その無意味をこそ意味性に転倒しようとするのだ。私見では、たとえば暗黒舞踏と呼ばれたジャンルが辿ったプロセスとは、概ねこのようなものだったのではないか。そこに孕まれた「観念」は、こう言ってよければ、極めて文学的である。舞踏と詩との共振は、ある種の必然であったのだ。
だが「からだ」が「詩」に成ることで「表現」となれるような幸福な時代は既に去った。大橋可也はたぶん、その後姿を垣間見ることの出来た最後の世代のダンサー/コレオグラファーである。だが、だからこそ彼は、存在を観念に変換することを、そのまま潔しとすることが出来ない。そこには決定的といってよい懐疑が、亀裂が生じてしまっている。彼は、ただそこに(ここに)在る、ここに(そこに)居る、ということに留まらざるを得ない。或いは彼は一旦、観念へと突き抜けようとしたのだが、ことによると、そこでの観念性の飽和を自らの「からだ」に浴びたあげく、ある断念と確信とを携えて、ふたたび「リアル」へと突き抜けた、ということなのかもしれない(これはヤン・ファーブルが、実際の事件に想を得ながら、最終的には「思想=観念」に成ってしまっていたのと丁度逆さまである)。
もうひとつ、渡辺玄英の詩を引こう。
私じゃない
私の血じゃない
(これは私のはずがない(はず(ほんと?
じゃあ 私って誰?
かえり血 たくさんのかえり血
(何かをわすれてここに立ちすくんでいる
ひとりで影ふみをしていたら
ちまみれになっていましたせんせえ
殺したのはボク(私じゃない
殺されたのはきみ(私じゃない
ような気がする(したり(ち(したたり(するかも
ー渡辺玄英「ミツバチのよーそろ」ー
渡辺玄英の詩は、かつて「舞踏」と蜜月時代を過ごした「詩」とは、本質的に異なるものへと変容してしまっている。ほとんどまったく「文学的」でも「観念的」でもない、だが突き刺さるほどにリアルな「ことば」。ちょうどこの「ことば」に対応する「からだ」を、大橋可也は探求しているのだと私には思える。それは「重心がおかしくなって」おり、「くるしむこともくるうこと」も出来ず、だが突然誰かを(自分を?)「ホームに突き落とし」たり、ふと気づいたら「ちまみれになって」いたりするような「からだ」である。そしてそれは間違いなく、現在を生きる(しかない)われわれが、それぞれの「私」を入れる袋として、どうあっても手放す事を赦されていない、すべての「からだ」のことでもある。「明晰」さとは、この残酷極まりない真理の別名でなくて何だろうか。
佐々木敦(ささきあつし):
1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。BRAINZ塾長。エクス・ポ編集人。著書に『(H)EAR-ポスト・サイレンスの諸相』『テクノ/ロジカル/音楽論』『ソフトアンドハード』『ex-music』『テクノイズ・マテリアリズム』『ゴダールレッスンあるいは最後から2番目の映画』『映画的最前線』。早稲田大学、武蔵野美術大学で非常勤講師も努める。
FADERBYHEADZ.COM
BRAINZ
エクス・ポ日記
椹木野衣 [ empire_paper ]
ダイアローグ×大橋可也「単独者への視線」
大橋:今、世の中全体がすごく保守的になっていて、みんな自分の行動を自主規制してるようなところがあると思うんです。誰かに押さえつけられているわけではなくて、“空気”を読んで自分の行動を制限してるようなところがあるんじゃないかと。
椹木:日本に帰って来てから「空気」という言葉をよく聞くんですが、よくわからない。“空気”という語感をいまいち共有できていないんですね。が、確かに重苦しい感じは受けます。僕自身、イラク戦争が起こった時に「殺す・な」というデモを行ったんですが、やればやるほど締め付けが強くなって、できることが制限されていくような印象を受けました。
大橋:何かをやろうとすればフタをされる、そういう状況は、オウム事件があって生まれたものだと思うんですが。
椹木:そうですね。美術界でも、90年代前半には銀座や新宿で突発的なパフォーマンスが随分見られたんですが、サリン事件以後はそういう不審な行動に対する目が異常に強くなった。アート界でも絵画をきちんと描こうという傾向が強まったのは、マーケットのこともあるけど、そういう社会の風潮も反映していると思います。でもその一方でChim ↑ Pomみたいな人たちが美術館やギャラリーの外で随分新しい動きを見せていて、それはすごくおもしろいと思います。それを見ていると、結局想像力にかたちはないわけだし、取り締まるにしても定型のないものは取り締まりようがないので、その駆使の仕方なのかな、という気がします。重要なのは、初発の行為(わけのわからなさ)をどれだけ起こせるか、ということだと思う。繰り返せばけっきょく定型が出て来てしまうので。その点でChim↑ Pomは面白いと同時にその困難さを持っている。「殺す・な」のデモも個人的には初回がいちばんわけがわからなくておもしろかった。で、そんなことを考えながら、このあいだたまたま展覧会場でメンバーのひとりに会ったら、「殺す・な」のデモに参加してくれてた人で。だから、そういうところで唐突に巡り会うというのはおもしろいことですね。こういうことは予想の枠をはみ出ていて、そうでないとつまらないし、だから全然悲観はしていません。
大橋:ちょっと話が戻るんですが、今日はオウムに関してもう少しお聞きしたいことがあって。そもそもあそこに集まった若者達は、バブル以後の沈んだ日本の状況を変えようという社会改革的なエネルギーを持った人達だったと思うんですが、そのエネルギーがどうして芸術とか創造的な方向に向かわず、ああいう集団性に流れてしまったんでしょうか。
椹木:それは、やはりオウムが組織だったからでしょう。僕はことを起こすのに人間同士の集団というのはとても大きな力になると考えているけれども、それが組織になってしまった瞬間、その維持ということが中心になってしまう。僕が思うに、あそこに残った人というのはどういうかたちであれ組織を志向する、あるいはそれに救いを求める人たちだったんじゃないか。でも、美術というのは本質的には個の作業なんです。あるいは、そういう個が一時的に集うことで生まれるコンパクトな混沌が重要で、歴史的にムーヴメントと云われるようなものでも、たいていはそういう組織以前の集団で形成されています。具体的には5、6人くらいの。だから基本的には単独者の集いですよ。ゆえに結局は解散してしまう。でもそのほうがいいんです。もっとも最初から最後まで単独者という人もいます。ダダカンみたいに。
大橋:僕のやっているのは身体を使った舞台芸術ですが、ダダカンはまさしく身体そのものですね。
椹木:ダダカンは、関東大震災や太平洋戦争を通じて、けっきょく自分の最後の持ち物である身体までリアリティが一度、還元されているんだと思うんです。そこから見ると、お札も証券も燃やせてしまう。だからなのか、あの人に会っていると、等身大の人間といま対面しているという感じがものすごく強く伝わってくるんです。社会的に奇矯と云われるようなことを数々やっている人だけれども、実際に話をしていると、そんな行動からは想像もできないくらい常識人なんです。僕は、こういう感覚は重要だと思っています。
大橋:今のお話には非常に共感します。「単独者」っていうのは、たんたんとした日常の中で、地道な行為を継続する人のことだと僕も思うんですよ。僕も普段はサラリーマンですし、自分達の作品を売り込みに行ってあちこちに断られながら活動しているんですが、そういう風にして関係性を作っていくことがアーティストの仕事だと思っている部分もあって。ただ、美術の世界のように、キュレーターが作家をピックアップしてくれて、批評家が批評してくれてっていう状況はうらやましいとは思います。
椹木:でも、いまではなにかと美術界は恵まれた状況にあるような気もするけど、それは一時的なものかもしれないし、けっきょく僕自身が関心を持ち続けている人というのは、そういうこととはあまり関係がないような気がします。前はそんなこと云ってられない状態でしたから。
大橋:でも、その中でも継続してきた人は生き残っている。
椹木:そうですね。だから、今の状況を当たり前のように考えて、ひょんなことで世界のマーケットの中に入っていったとしても、いずれはその人が単独者であるかいなかは試されると思います。
大橋:今の環境に慣らされた人は、もしその状況が終わっちゃうと、自分も見失っちゃうんでしょうか。
椹木:もちろん、その中には状況が変わっても続けていく人はいるでしょう。「六本木クロッシング2008」に出品した榎忠さんという人がいますが、もう定年を迎えたけど、以前は9時5時で働くサラリーマンで、きわめて良識のある人です。そういう人たちが、ある淡々とした日常の中で作品(というか行為)をやめずに作り続けて行くというのが興味深い。けっして不満の爆発とか、非日常の演出というのではない。ましてや成功したいということでもない。日々の一部なんです。それが数十年とか時間を経過して僕らが俯瞰してみれるようになると、なにか得体のしれないものが見えてくる。そういうのが単独者の特徴なんじゃないか。先日、見せていただいた大橋さんの公演にも、なにか似た匂いを感じました。いまは、全国に点々と散らばっているそういう人たちの存在に関心があります。
2008年10月2日 新宿にて
聞き手:大橋可也、西中賢治、熊谷歩
椹木野衣(さわらぎのい):
美術評論家。1986年に東京を拠点に活動を始める。主な著作に『シミュレーショニズム』(1991)『日本・現代・美術』(1998)『戦争と万博』(2004)など。展覧会として村上隆らが頭角を現した「アノーマリー」(1992)ゼロ年以後の展開を示した「日本ゼロ年」(1999)などを手掛ける。イラク戦争に際してはデモ・ユニット「殺す・な」を結成した。
鈴木邦男 [ empire_paper ]
ダイアローグ×大橋可也「闘いを取り戻せ」
大橋:僕が今すごく問題意識として持っているのは自分のアイデンティティということです。僕たちの今のこの日本に生きる身体だったり、個人だったりに拘った作品を作りたいなと思っています。で、じゃあ日本人ってなんだろうって、すごく考えているんですね。たとえば、鈴木さんであればプロテスタントの教えを押し付けられたことだったり、左翼の学生運動だったり、アメリカだったりがある意味脅威だったと思うのですが…。
鈴木:そう言われれば、ただ反発していただけだったね。あまり自分がないというか。
大橋:いやだけど、自分というのは自分だけで存在しているのではなくて、やはり人がいて、応答があって成り立つものだと思うんです。鈴木さんの場合、そのような大きな力やものに対しての反発が鈴木さんのアイデンティティになっていて確立させたと思うんです。で、僕たちにはそういう大きな力というものがなかったのかな、だから自分というものを確立するのにすごく苦労したのかなという気がしているんです。
鈴木:そうか、なるほどな。そういうほうが大変だったのかもね。
大橋:で、他者というか敵と言ってもいいと思うんですが、鈴木さんにとって、それらはどういう存在だったんですか?また現在において敵というものを考えるとすると何ですか?
鈴木:学生のときは敵というものが明確にありましたね。「この日本を壊す奴らが赦せない、革命するやつが赦せない」と。それだけ敵が強大だったし、また敵が怖かったですね。ただ合気道やったり柔道やったりして、肉体を意識することによって、まあ負けたら負けたでよいというような、どこか吹っ切れたところがあります。結果的に敵だったり、かつて敵だった人間と話せるような状況になったし、そういう意味では敵が見えなくなってきたところがあります。むしろ自分自身が敵になりますね。だから、過去の自分と戦っているのかもしれないし、未来の自分と戦っているのかもしれませんね。そんなことを最近感じます。
大橋:なるほど、ここで時代の流れについてお聞きしたいのですが、最近、少しずつ変わってきたとはいえ、いまの時代は政治的な運動が一時期に比べるとずっと減ってしまっていて、それと同時に身体が表に出るというようなことも減ってきてしまっているのではないかなと思っていて、段々みんなが自分たちの安住しやすいところに閉じこもるような時代になってしまったと思うんです。そこの原因や今の問題意識というものがあればお聞きかせください。
鈴木:一番悪いのは連合赤軍事件とかで、左翼運動だけでなく社会運動そのものが信用を失ったということだと思います。
それが大きかったと思う。それをクリアできなかった。だから、みんな自分のことだけを考えるようになったんだと思います。僕は最後の学生運動も右翼の運動もああいうくだらないことがあって失敗したと思うんだけど、だけど素晴らしいところもあったと思っているんだよね。自分たちは食えなくても世の中の人たちのために頑張ろうとか、少しでもよい社会を作ろうとか、革命を起こそうとか、そういう夢とか希望とか愛とかはすべて忘れ去られて、彼らが残した悪い偏狭なセクト主義だとか排外主義ばかりが残ってきている。夢や希望など、本当は学ぶべきものは学ばないで捨て去るべきものだけ受け継いでいる。それは駄目だろうなと思います。
また僕はそういう時代を体験していない今の若者たちは可哀相だとも思います。ああいうふうに学生運動があって、右も左も有って、「解放区を作るんだ」なんて言って、みんな暴れられた。ああいう時代を体験できなかったなんて不幸ですよね。いまの時代、そういった殴り合いだとか小突き合いとか、そういった肉体を使ったものがないと、やはり溜まっちゃうと思うんです。秋葉原の容疑者の青年だって、実際自分がデモやったり、叫んだり、会社に対して労働組合なんかで文句言ったり、社長と取っ組み合いしたり、そういうことがあったら殺し合いなんてしないと思うんですよ。それがなくて、自分の中にずっと沈静しているからああいう形で突発的になってしまう。だからやはりそういう動乱の時代がもう一回必要なのかなと思います。そういう社会的な、全世界的な闘いがないのならば、自分の中で作っていくしかない。それはダンスもそうでしょうし、格闘技だって、またいろいろな社会運動もそうじゃないのかなと思います。そういう闘いの場は自分たちひとりひとりで作っていく必要があるんじゃないかなと思います。そうやって肉体を使ってヘトヘトになるまでやってみる。そういうのがないと駄目だなと思いますね。
大橋:そうですね。で、いまの時代、少しずつですが新しい社会運動的なものは生まれてきていますよね。
鈴木:雨宮処凛さんとかやっていますね。そうですね、新しい契機になるかもしれませんね。普通そういう運動をする人は全共闘をどう受け継ぐとか、全共闘をどう乗り越えるだとか、そういう次元で話をするんですよ。全共闘コンプレックスがある。でも雨宮さんは全共闘を軽々と乗り越えているんですよ。彼女たちのスローガンを見ると『平成の百姓一揆』だとか『平成のええじゃないか』だとか、つまり全共闘のもっと前の反逆の形態を持っていて、それは僕らが考えられなかったことですね。しかもただネットに「何月何日どこどこでデモをします」と書くだけで何千人と集まってくる。中にはお互いの名前も知らないで集まって付いていくものもいる。党には縛らない。それは僕らにはできなかったことです。でね、デモでも整然とデモをするのではなく、みんな踊りながらやっていましたよ。ダンスしながら。だから、そういうのやってみたら?そしたら、もっとみんなダンスが当たり前にしやすくなると思うんだよね。
大橋:そうですね。そういう可能性はあると思っているんです。
鈴木:そうすると格闘技のほうにもいけるだろうし、そういう大衆運動でもできるだろうしと思ったな。でも、やっぱりデモとかで政治性を求めちゃったりとかするとかえって限定されちゃって駄目か。
大橋:いや、そんなこともないのかなと思っているんです。それはある意味僕たちも自分たちの世界に閉じこもっていたりしたところがあると思うので、ちょっとそこは表に出るべきとこは出て、とりあえず色々な形をトライしないといけないなと思っています。
2008年9月21日 高田馬場にて
聞き手:大橋可也、江夏令奈、熊谷歩
鈴木邦男(すずきくにお):
政治批評家。1943年福島県生まれ。1967年早稲田大学政治経済学部政治学科卒業。同大学院中退後、1974年まで産経新聞社に在籍。1972年に新右翼「一水会」を創設し、1999年まで代表を務めた。現在は同会顧問。近著に『失敗の愛国心』(理論社)、『愛国の昭和』(講談社)などがある。
鷹野隆大 [ empire_paper ]
ダイアローグ×大橋可也「エロい男のすすめ」
大橋:鷹野さんは男性をずっと被写体に撮っておられて、男性が被写体になるケースって、特にヌードだと無くて、一般的に見慣れない認識だと思うんです。ただ、最近そういった認識が変わってきて、秋葉原通り魔事件の加藤なんかは自分が不細工だからモテないっていう、そういう論法がある訳です。そこで男が見た目を、ある意味凄く普通の人が、見られる対象として意識するようになったんじゃないかなと思うのですけど。
鷹野:そうですね。若い男の子の顔がどんどん奇麗になっていますね。女の子のような美しい顔の男子が増えたというか。容姿を気にする度合いは、この10年くらいでガラッと変わったと僕は感じていて、もちろん女の子は昔からずっと着飾っていたけれど、ここ数年はかなり派手になっていて、プチ整形とか、まつげのカールとか、マスカラもいろいろ長く見せるものが出てきたりして、美容に対する執着が相当強くなってる気がします。女性につられて男性も派手な方に流れてるのかもしれませんね。
大橋:そうですね。女性の場合、美しくなると言うのは男からの評価より、自分は奇麗になるという自己目的性が強いのかなと思っていて。男は逆に目的があるけどモテるために具体的な紐付けがあまりない。これをモテるためという目的性をもっていればある意味僕は健全な事だなと思うんですけど、かっこいいという所だけの枠組みだけがあって、そこから抜け出せてないんじゃないかなって。
鷹野:確かに、女性陣と話していると、あんまり男の顔を気にしていないって意見があったりして。イケメン必ずしもモテずっていう。
大橋:実際そうでしょうね。
鷹野:モテようと思ったら、現実には、単純な顔の善し悪しとは関係なく、いろいろとアピールしなければならないと思うんですが、その努力、エロい想像力と言ってもいいかな、を全部サボる理由として「かっこ悪いから」という言い訳を出してくるのかもしれませんね。
大橋:そうですね。今の時代的な変化っていう意味だと、インターネットとか、映像メディアの発達があって、誰でも被写体になる機会が増えて、ある意味男達は意識し始めた所なんじゃないかな。
鷹野:容姿も含めたトータルな自己表現という点で、男たちはまだまだ夜明け前ということでしょうかね。
大橋:だから、そこをもう少し健全な考え方をすると、もっと男達は見た目やエロさをアピールするというか、それはモテるためという回路ではなくて、例えば、男のヌードにしてもそうですよね。もっと出回って良いんじゃないかな。
鷹野:ポイントは「見られている」という意識かもしれませんね。女性は子供の時から、外見で値踏みされるという残酷な経験を繰り返していて、容姿っていうのを本当にシビアに突き詰めている。
大橋:男はその分、経験値が少なすぎて打たれ弱いですかね。
鷹野:そう思いますね。いま僕は学校で教えているんですけど、セルフポートレートの課題を出すんですよ。そうすると、総じて女性の作品は見られるんですが、男性のは見ているこちらが気恥ずかしくなるものが多い。一生懸命やってるんだけど何かがズレているんですね。
大橋:そのズレってなんですかね?
鷹野:自分を客観視する能力の弱さだと思います。女の子達は今言ったように子供の時から容姿や外見を磨いていて、自分の言葉も含めて、自分がどういう風に相手に影響を与えるかを計算できると思うんです。だから、写真に写す時も、それの延長線上で普通にやれば意図を明快に伝えられる。でも、男の場合は意図があってもズレちゃう(笑)。
大橋:それらが今のいろんな問題に繋がっているのかなと思いますね。
鷹野:状況が変わっているのに、それに対処するだけのスキルっていうか、経験値が無い事が問題に繋がっている。そう考えると、例えばダンスは、ほとんど裸の舞台に自分を曝すわけですから、こういう経験値をあげるのに役立つかもしれませんね。
大橋:もっと曝け出すこと、そこからエロさを身に着けること。それが今の男たちに必要なことなのでしょうね。
2008年9月19日 麻布十番にて
聞き手:大橋可也、友兼亜樹彦、熊谷歩
鷹野隆大(たかのりゅうだい):
写真家。1963年福井市生まれ。1987年早稲田大学政治経済学部卒。 1994年より作品を発表。2006年、写真集『IN MY ROOM』(2005年 蒼穹舎)にて第31回木村伊兵衛写真賞受賞。セクシュアリティをテーマに他者との関係性を問い直す作品を発表している。
鷹野隆大「ゆらぎ」
2008/11/7-26
CALM & PUNK GALLERY (カーム アンド パンク ギャラリー)
〒106-0031 東京都港区西麻布1-15-15浅井ビル1F
tel: 03-3401-0741
写真家の鷹野隆大がこれまで断続的に制作してきた映像作品で構成した個展。
吉本昌行(志人) [ empire_paper ]
ダイアローグ×大橋可也「面白みのない世の中に対しておもしろいことをやりたい」
大橋:僕が志人さんにすごく関心を持ったのは、路上で歌ったりだとか、そういう経験っていうのはすごく重要だと思っているんですよ。路上においてのパフォーマンスというか伝えることというのと、そのときに起きている自分の身体だったり、見ている人の身体、あるいは見てないで通り過ぎていく人の身体、というところに何か気づきというか、思いがあればお聞かせ下さい。
吉本:自分としてはやはり、生まれ育ったのがこの東京新宿という街でして、5年前くらいから自分がその街をすごく客観的にみたりとか、サーっと人々がこう流れていっている中で、パッと止まって街を見てみると、その中で起きていることがよく目に留まるようになっていきました。それくらいから、まず街を「見る」視点がガラっと変わった気がします。私には、そこに住んでいるんだけれどもまるで宇宙人のような、もう地球にいないかのように街を見ている視点っていうのが出来上がっていって、そうこうしているうちに、人々の”普通”の動きというものが逆に”異常”なんじゃないかと思うようになってきまして、人々が「多重人格的」に人と話して、「多重人格的」に携帯電話で話し、「多重人格的」に映画でも行こうかっていう約束をして、また「多重人格的」に歩いていく姿を見たときに、そこに「閉じている」感覚があったんですね。その人々が閉じている中で、例えば街宣カーで覚醒を促したりだとか、やっている側としてはすごく開いてるというか、耳を嫌がおうにもジャックしようとしてるのかもしれませんけども。その「開く」ってことが認められた場所で「開く」っていうことと、禁じられているというか普通だったらそりゃしないだろっていうなところで「開く」っていう行為っていうのはまたぜんぜん違うなと。ですから自分がもし路上でやるときっていうのは突発的でもあり、今だって思ったら今すぐにやる。何故「開きたい」と思うのかと言えば、どっちが「人間的」かっていうことを自分がいつも考えていることなんです。ただ高田馬場や新宿界隈では、人のことなんか気にしてらんないっていう状態、つまり思いやりも何もない状態が非常に多く見受けられていて。その中で、自分は街宣カーに乗ってやるとかそういうことの表現ではなく、どちらかというと「非暴力的」な方法でやりたい。
無理やりでは無く、思いやりで。
大橋:志人としては政治的な理念とかっていうものに、それを直接訴えることはしない、という話をされていましたが、最近になって生きづらさを感じている人たち、弱者を救う運動っていうものが出てきたと思うんですね。直接的な、特定の政治の方向性っていうのはないのかもしれないですけども、そういう運動というか社会運動について、自分が関わってみたいだとか、客観的に見てどういう風に思われますか。
吉本:そうですね、私自身も色々な活動家に出会って話を聞いたりして来ました。
しかし、反対活動は僕の中ではネガティブイメージがある。反対活動は絶対に必要なものなんだけれども「直接行動」というものに興味がある。反対活動っていうのはネガティブにネガティブをかけ合わせてっていう部分もあると思います。反対活動をしている内にどんどん状況が悪化していってるっていうのも事実で、その悪化していってるという状況は、例えばですが、地球環境の問題に関して言えば、地球上の緑が激減している事の一要因に地球温暖化が考えられる。そこで反対活動というのは、そうした要因を追求し、前線に立って誤りを正す方向へ促す訳でありますが、誤りを正そうと何年も反対をしている一方で、状況は一向に良くならない場合もある。最近のエコブームでエコバッグを使ったり、CO2 排出量の少ない車に乗る心遣いをしても、「木を植えたり、種を蒔いたり、(直接行動)」する人は都会にはなかなか居なかったりする。勿論やっている人も居るが。つまり、一見して反対活動に見えても、それはファッションになっている部分が多々あると思う。しかし、「木を植える」という直接行動は、植えた人も、そしてその人の子孫も、植えられた地球も、嬉しい事だと思う。これは経験してみると分かります。人間という命だけが生きている地球ではない事に改めて気付かされます。皆が違って皆が良いんだと思える森の心が人の心に芽生えると思います。又、「種を蒔く」という行為も素晴らしく、「終わらせる」のではなくて、常に「始める、生まれる」感覚がそこにはあると思うからです。
自分としては、いたたまれず行動に移してしまっている人、本質をずっと守ってやっている人間に非常に興味がある。自分の考えとしては反対活動に対しても別に反対ではない。ただそうしている間に状況が悪くなっていってるのをどうするかっていうことを実際受け止めてやっている人っていうのは非常に大変な労力だなと。
ですから私の好きな人間は政治的な活動家ではなくて、そういった反発的なエネルギーを表現に変えてしまう「表現者達」だと思います。なにしろそういった「表現者達」はどこにでも起こりうる”政治”が大嫌いなんですから。
最近ですと戸田真樹君という画家を始め、彼の周りにいる人間とか、この常に面白みのない世の中に対してなんかおもしろいことやりたいねっていうことを純粋に考えている仲間達と何かできないかなと思っております。今年の年末から来年にかけて、自分たちの周りでこれまで出会った人たちと、「場」を設けまして、そこでやりたいことやったらいいんじゃないかと思っております。例えば絵を飾ってる日や、歌を歌ってる日もあってもいいし、おじいちゃんの話を聞いたりだとか、そういう場があったら楽しいねっていう単純な思いから。それは純粋に自分たちがそういう場にいれば楽しいねっていうのもあれば、もしかしたらそこに来た人々はクラブで踊っている瞬間よりも、なにかこうもっと刺激的な瞬間ってものがあるんじゃないかと。ある人がお笑いについて話していましたけども、笑わそうと思って意識的に人を笑わせるのが本当に面白いお笑いではなくて、人がめちゃめちゃまじめにやってる瞬間ってもしかして逆にめちゃめちゃおもしろい瞬間かもしれないっていう、なんか笑っちゃいけないんだろうけども、笑っちゃうぐらい逸脱してやっちゃってる人っていうか。本当にそういう人間にすごく興味がありまして、僕と戸田君の間では「パンペン」って呼んでるんですけど(笑)。勝手な造語なんですが、「パンク・ルンペン」の略で「パンペン」って。本当に自我の膜と自意識の膜がバコーンと外れちゃってるような人たちっていうのを集めてなんかやったらきっとおもしろいことができるんじゃないかなーと思って。
踊らそうと意識的な「支配の場」を作るのではなくて、自然に「心踊ってしまう風景」を探して。
つまり、「場」を作ろうとしている人間は権力者なんかじゃなくて、そこに在る全ての命が主人公であり、全ての命が「場」を作っているのだと私は思うからです。
大橋:それではたぶん来る人も受動態ではなくて「来る」っていう意思を持って、必ず何かを受け取るっていう意思を持って来るんですよね。そういうのは運動って言葉が適切かどうかわからないですけど、たぶん少しずつでも変えられるきっかけなんじゃないかなと。
吉本:そうだと思いますね。普段だったらもう本当に日陰に隠れて、見ようと思っても見られないような人たちが、そこに行けば見られるというか。
それはもう闇の中で光ってるヒカリゴケみたいな(笑)
2008年9月23日 高田馬場にて
聞き手:大橋可也、菅原靖志、熊谷歩
吉本昌行(志人・しびっと):
新宿区上落合生まれ。旅人。小説家。表現人格クリエーター。志人(降神/TempleATS)
「森の心」に目覚めた彼は現在、農学を学ぶ傍ら、祖父母から受け継いだ畑を耕している。
志人(シビット)は、降神非行期(オリガミヒコウキ)、玉兎(タマウサギ)なるオルターエゴ(別人格)を持つ。時には歌う変幻自在のフロウを持ち、従来の日本語のHIPHOP観を覆す唯一無二の存在であり、ジャンルの壁を超え音楽空間を彷徨う旅人。内なる宇宙からとめどなく溢れ出す言葉は、聴く者の脳裏に映像を浮かび上がらせ、まるで一つの映画を見ているかのような感覚へ誘う。
「帝国ペーパー」配布について [ empire_paper , wanted ]
フリーペーパー「帝国、エアリアル」(通称「帝国ペーパー」)の配布を開始します。
フリーペーパー「帝国、エアリアル」は大橋可也&ダンサーズ新作公演「帝国、エアリアル」の制作、上演に先立ち、「帝国、エアリアル」がそのテーマとする「身体、社会、日本」に迫る企画として実現しました。
ペーパーは以下のコンテンツよりなりたっています。
[特別寄稿]
「幸福と変化とオルタナティブ」赤木智弘(フリーライター)
「からだの重心がおかしくなっている」佐々木敦(批評家)
[ダイアローグ×大橋可也]
大澤信亮(批評家)
椹木野衣(美術評論家)
鈴木邦男(政治批評家)
鷹野隆大(写真家)
吉本昌行(志人・「降神」MC)
このペーパーを配布していいただける人および場所(お店、学校など)を募集します。
ご興味のある方は気軽にお問い合わせください。
mail: office@dancehardcore.com
「帝国ペーパー」刊行にあたって
大橋可也&ダンサーズは常に現代における身体の在り方を問う作品を作り続けてきた。その作品はこの社会で生きづらさを感じている、身体を見失ってしまった人々に届けるべきものであった。
ところが、どうだ。秋葉原連続殺傷事件の加藤容疑者に僕たちの作品は届いていただろうか。
あの事件の責任は僕たちにある。では、どうすればよいのか。
『帝国、エアリアル』は「身体、社会、日本」を主題にする作品である。それはダンスの作品、公演にとどまることなく社会全体に訴えかける運動そのものに成長することを目指していく。訴えること、届けようとすること。そのための手掛かりがここにあることを信じて。
大橋可也