大橋可也と『明晰の鎖』について

September 16, 2009

大橋可也と『明晰の鎖』について [ abyss , chain , dance ]

『深淵の明晰』のチラシに掲載している、「明晰」第二作『明晰の鎖』についての石井達郎さんの文章です。

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大橋可也と『明晰の鎖』について
石井達朗(舞踊評論家)

大橋可也は日本のコンテンポラリーダンスのなかで、特異な位置を占めている。彼の作品はストイックなまでに「踊る」ということを排除して、身体の現前性に、身体が今ここにあるということに、こだわる。そこから見えてくるのは「日常」という表層の下に隠された、抑圧された衝動であり、抑えることのできない暴力であり、男と女の間のコミュニケーション不能なジェンダーの壁である。そこに土方巽以来、日本の舞踏やコンテンポラリーダンスのなかで育まれてきた、ある種の身体観を見ることも可能だが、大橋の作品の注目すべき点は、身体の動きそのものばかりでなく、空間全体に意識を張り巡らせたような現代的な演出にある。身体の震えが、劇場空間のすみずみにまで波及してゆくと、今度はダンサーの身体が空間の囚われ人になったかのように出口を失い、硬直する。
上演時間110分、3部構成の『明晰の鎖』は、そのような大橋の仕事の集大成といえる作品である。前半、舞台後方は、劇場の外の街路に向けて扉が大きく開けられたままであり、観客は踊り手が動く「虚構」と、表通りを行き交う人々の「現実」を交錯させるようにして同時に見ることになる。後半、この扉が閉められた後に展開する女たちの緊張した動きや微妙な表情、そして第3部でビデオモニターにより次々にクローズアップされる女たちの姿態。ここでは虚構も物語も霧消してゆき、女たちの一瞬一瞬の身体の生々しさのみが連鎖してゆく。それは最早、現実とも演技とも判別不能である。おそらく、その双方であるだろう。エロス、暴力、脅威、哄笑、そして崩壊・・・。その荒涼とした身体の風景に何を読み取り、何を感じるのかは観客の自由だ。大橋の作品では、観客もまた現実と虚構の網目のなかに、自分自身の創造的な神経を研ぎ澄ますことを求められているのである。
(2008年2月)

posted by Kakuya Ohashi at 2009/09/16 8:15:04 | TrackBack
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