キマイラの橋

September 16, 2009

キマイラの橋 [ abyss , dance ]

『深淵の明晰』チラシ裏面に掲載されている、鼎談:大橋可也&ダンサーズ「キマイラの橋」を公開します。

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檀) 本日はお集まり頂きありがとうございました。まずはじめに、大橋可也&ダンサーズとの関わりを教えて下さい。

江) 私は2003年より大橋作品に出演するようになりました。現在カンパニーの中では最も古参のメンバーです。ダンサーとしてはブランクのある時期もありますが、基本的に03年以降海外公演を除いて全ての作品に出演者として或いは観客として立ち会ってきました。

黒) 『帝国、エアリアル』のペーパーデザインを任せてもらったのが、大橋可也&ダンサーズとの出会いです。以来、デザインでは『帝国ナイト』『Bleached』のフライヤーを、文章では『Black Swan』『帝国、エアリアル』を書いてきました。

檀) 1996年に森下スタジオで行われたワークショップで知り合いました。大橋可也&ダンサーズへは一作目と三作目に参加しています。カンパニー結成以前も含めて、比較的初期の作品に立ち会ってきました。


■「大橋可也&ダンサーズ」結成以前 ~この惑星は僕の居場所じゃない~

黒) まずグループ結成以前の活動である『ミヅチ』の話から行きましょう。大橋さんが一人でやっていたんですか?

檀) 踊り手は一人だけ。他に映像の"NEO VISION"が一緒でした。大橋はイメージフォーラム付属映像研究所で学んでいて、その頃知り合ったようですね。

江) 彼らはバニョレ参加作品(『Today Your Love,Tomorrow The World /2000』や『明晰』のときも係わってますね。初期の頃、メディアはどう使っていたんですか? 

檀) 大橋可也の生の踊りをビデオカメラで撮影しながら、デジタルエフェクトでサーモグラフィのように変換します。それを、舞台と同時進行で大スクリーンに映していました。一例に過ぎませんが。

江) この頃はテーマ性よりも、メディアとダンスの実験的な関わりを追求していたんですね。ちょうどダンスの世界で映像が盛んに使われ出した時期と重なります。Windows 95が発売されてITが急速に身近になってきたことも大きいのかも知れない。

黒) いまも音と映像を使う作品はありますね。その頃、原型ができたのかも知れませんね。

檀) 搬入口を開け放して現実世界を借景に使った作品(『明晰の鎖/2008』)がありましたが、映像の方も舞台上の世界のひとつの位相として取り上げるのが、近年の方向性だと思います。しかし初期のころは「マルチメディア」志向でしたね。

江) まだ動きに暴力的な要素はなくて、むしろ自発的にダンスらしく動いていたようですね。

黒) それがフォルムを意識したダンスだった、と。

江) (好善社の)和栗由紀夫は特にそう。

檀) 好善社にはあの当時五人くらいのメンバーがいましたが、一人一人の身体の質感がかなり違っていました。その中でも際だって異質だったのが大橋可也。宇宙人みたいで、デイビッド・ボウイの「地球に落ちてきた男」を彷彿とさせましたね。

江) 中性的ですよね。

黒) 舞踏の人は「理想的な舞踏家像」に重なるために稽古をするのでは? という先入観もあったのですが、カンパニーごとにカラーがあるんですね。

檀) 大駱駝艦や山海塾にはそういう印象がありますね。体格差こそあれ、メンバー全員のテイストが同じで区別がつかない。後頭部の形で舞踏手の識別をする、みたいな(笑) でも好善社は一人一人全然違う。東雲舞踏にもそういう要素が受け継がれています。

黒) 檀原さんはグループ結成以前から大橋さんを見ていて、参加してみたら今までと全然違うのでビックリしたんじゃないですか?


■第一期 ~ダンスからの脱却を模索。手探りで歩きはじめる~

檀) 創世時代は全然ダンスの稽古らしいことをしなかったんですよ。匍匐前進とか、走っていって壁にぶつかってまた走る、とか。特に匍匐前進はかなりやらされました。「大橋可也といえば匍匐前進」というくらい。「かかとをあげるな! 付けたままで前進して!」などと注意された事を憶えています。今までにない新しい作風を確立しようと試行錯誤していたんでしょうね。

江) 作品を作る前段階で「こういう事をしたいんだ」という説明が全くなかった(笑) 何をやるかも分からず訓練をさせられて……。でも、できあがったものを見ると「初めから明確なイメージがあったんだろうな」と感じました。

檀) 最初から「非ダンス」のようなことをしよう、という狙いはあったんでしょうね。大橋はかなり踊れるダンサーですが、あえてダンスのボキャブラリーを封印していましたから。記憶している限りでは、バニョレのとき、ミウミウとのデュオでコンタクトインプロのような動きを指示されたときくらいですね、ダンスらしい動きを要求されたのは。結局その動きは却下されましたけど。「ダンスとはなにか、問いかける」という姿勢はあったんでしょうけれど、まだとっかかりが少なくて模索していた段階だったのでは。

黒) ダンスの手がかりを既知のダンスフォームに求めることなく、匍匐前進から始めたっていうことがすごいですね。

檀) 初期の作風は非常に性的でしたね。バニョレまでは男女の性だけでなくて、同性愛も含めたセックス。とくに旗揚げ作品はメンバーが全員男で全裸だったから、ホモっぽかった。密着する場面もあったし。 
 STスポット(横浜)の「ラボ20」での上演でした(『Revolution in summer/男根主義でいこう/1999』)が、オーディションのときはまだメンバーを集めていなかったようで、大橋がひとりで乗り込んだそうです。審査中は、踊らずにずっとしゃべりつづけていたと聞いています。キュレーターは伊藤キムでした。最初の頃はバカなことばかりしていて、ロマンス小林が「うちのポチは目玉焼きが好きなんだよ」などと言って、舞台にカセットコンロを持ち込んで料理をし、観客に食べさせたり。
 後日伊藤キムと話したとき、「今の時代にこんなバカなことをしている奴らがいるとは思わなかった」と言われました。あの路線を突き進んでいたら、ゴキブリコンビナートみたいになっていたかも知れない(笑)

江)黒) (笑)

江) 女性陣は二作目(『Search and Destroy/1999』)からの参加ですが、ゲーム形式でラウンドガールが持つようなプラカードを上げ下げしてみたり、かなり現在と違う感じでした。

檀) 全裸で四つん這いになった大橋が、白いピンヒールを履いた堅田千里(東雲舞踏)に跨られていたり、まだおバカな路線でした。引いている観客も結構いて。当時のキャッチは「ハードコアダンス」だった。……そうそう。スカンクのバンドが新宿のライブハウス「LOFT」に出演したとき、僕らはバックダンサーとして踊ったんですが、対バンした方から「随分コアですねぇ」と言われてました。

江) バニョレ時代も裸であるということと、非ダンスであるということが取りざたされました。それから身体をぶつける、ということから「暴力」や「セックス」といったことが言われ始めました。

檀) バニョレのとき読んでいたテキストは『レイプ・男からの発言』(ティモシー・ベイネケ・著)。もろに性的。

江) 現在の大橋の作風で、このとき既にあったのは?

檀) 密室感、無機質、ダンサーに上下関係がないフラットな感じ。「同時多発的な動き」もあったといえばあった。ただ社会批評性という側面はまだ弱かったですね。
 第一期のハイライトはバニョレへの参加ですが、うちのカンパニーだけフランス本国より選考の通知が来たんですよ。よそは全部ジャパンプラットフォームから通知だったのですが。雑誌『ダンサート』のバニョレの記事に、僕たちだけ載っていなかったり。異端でしたね(笑)

黒) 第二期に入ると、かなり変わるんですか?

檀) バニョレを境に大きく変わり始めます。バニョレ参加作品は初期の集大成ですが、第二期の萌芽もみられます。この作品の稽古中、"NEO VISION"のメンバーが「大橋作品への信頼が回復しました」と。ダンサーズの作品ではじめて映像を取り入れた作品でもありますしね。


■第二期 ~3年の休止期間を経て、再び活動開始。振付家として同時代の身体への挑戦~

江) 『Hardcoredance Highschool 1st session/2003』は少し作品自体が宗教団体を彷彿させるようなところがありましたよ。

黒) 宗教団体? それはオウム真理教とかを意識したってこと?

江) そうですね、創作段階では大橋が教祖でミウミウが幹部、他三人のダンサーが信者たちという設定で作りました(笑)

檀) 大橋が教祖って…(笑) 似合うねー。

江) はい。でも実際には大橋がもう一度自分で創作を開始する上でハードコアダンスってなんだ? という問いを自らに、また観客に問いかけた作品だったので社会問題などをテーマにしたわけではないと思います。振付も第一期までと同様にひたすらヘッドバンキングしたり叫んだりというシンプルなものがメインで、女が3人並んでパンを一斤ずつかじったり…で、最後に大橋が前に出て踊るという内容だったのでまだ第一期と同様、模索した作品でした。また04年に『あなたがここにいてほしい』のグループバージョンが発表されますが、私が出演した作品の前半部分は舞踏譜を使って性器やセックスをあからさまに表現し、やっぱりひたすら走ったり抱き合ったりと少し馬鹿げた内容でしたので何か大きな変化があったとは思えません。

檀) 確かに舞踏の表現ってどこか男性的な笑いがあるよね。下品なネタが多い。

黒) ひょっとして性器を晒すとか?

江) そういうことも昔はしてたと思うんですが、このときはパンツの中に手を突っ込んだりアナルに拳を押し付けて興奮したり…とそういったものでした。

檀) なんか悪い言い方をするとちょっと体育会的なノリが舞踏にはあるよね。

江) そうですね、勢いが必要ですね(笑) で、そのグループバージョンの後半部分、大橋とミウミウのデュオが後にコンペに出展したりツアーに回ったりなどして大橋可也&ダンサーズの代表作『あなたがここにいてほしい/2004』デュオバージョンともなるんですが、やはりこの作品が大橋作品の第二期の始まりと言えるんだと思います。

檀) 確かにグループバージョンのほうは過去の作品と似ている印象があったな。でもデュオ作品になって作品もぐっと締まって見えた。今までとは違い、とてもシンプルな構造になってクリアになったよね。特に5人バージョンのときは檻ももっと使い方があってもいいのにと思ったりしたけど、デュオ作品になって檻自体なくなったし。とにかく緊張感が出た。

江) そうですね、いろいろな意味で見づらい作品だったと思うんです。美術があると具体的な設定を観客に与えてしまって、それ以上の想像する余地がなくなる危険性がありますね。特に檻は「=監禁」 というようにイメージが強すぎる。具体的なストーリーがあるようで作品の前半後半のつながりもあまりはっきりしていなかったし、観客もあまりよくわからなかったんじゃないかなと思います。前半が無くなり檻が無くなって身体がクリアになり、観客も絵には描かれない様々な背景を想像したり関係性を見ることができたから緊張感も出たんだと思います。これ以降に発表された大橋可也&ダンサーズのどの作品においても他者との距離や関係性・緊張をどのように振付するかはとても重要なポイントになります。これは第一期とは違う大きな変化だと思います。あと大きな変化といえば、この作品がNYのキッチンで上演された際に向こうの批評家がこの作品を次のように書いたんです。

―都市生活は、見ることと見られているとの認識の間に急速な行き来を含んでいる。時々、一瞬の間さえあいまいになりえる。「あなたがここにいてほしい」での身悶えやそれぞれのもがきは、異なった物語に巻き込まれた人々の近くにある不快感を暗示しているかのようだ。このダンスは、暴力性を含むことで熟されている。大橋の顔の表情の幅、彼が座って我々と向き合っている位置、彼のスーツと激しいサウンドデザインは、地下鉄の設定をほのめかしているかのようだ。大橋は1995年に起きた東京の地下鉄サリン事件に言及しようとしたのかもしれない。(中略)「私は虐待には特に興味はない」大橋は言う。「しかし、普遍的な暴力には興味がある。」
余越は、「あなたがここにいてほしい」は、「東京のエッセンス」を捉えていると言う。(中略)彼らが意識的に都市的であろうとしていると思わないが、孤立とコミュニケーションの強い存在があり、私には、それがどういうわけか都市と結びつくのです。―
【The Brooklyn Rail / ブルックリン レイル 2005年11月号「ダンスと都市的経験」Emilr LaRocque】

つまりこれこそが大橋の考えてきたハードコアダンスの真髄だと思うんですけど、この作品を通して「私たちに必要な踊りとはなにか」「何が同時代の身体なのか」、それらを考える上で私たちが都市に生き、常に防犯カメラに監視され、過剰な情報化社会の中で無意識のまま他者からの視線に脅かされているということをまず意識しなければならない。それを考えるきっかけになったとも思うんです。

黒) 社会性を明確に浮かび上がらせようという演出の下に、ダンスが作られるようになっていくんですね。

江) ええ、でもまだ私たちダンサーは創作段階で大橋からそういう意図があることは説明されてなかったので、相変わらず何をやらされているんだろう…と疑念を抱いてました(笑) でも、私もはじめてデュオバージョンを見たときは衝撃を受けましたね。作品に完全に揺さぶられました。だから何をやらされているのかはまだよくわからないけど、大橋を信じてそれ以降もカンパニー作品に出たいと思ったんです。

黒) この頃、メンバーの入れ替えはあったんですか?

江) 基本的には大橋・ミウミウを中心にして他は作品ごとに出演者は替わりました。スタッフは初期の頃から関わっている方もいるのですが、ダンサーズとしてのカンパニー体制はまだ確立しておらず、毎回こちらから声を掛けたり或いは逆にダンサーのほうからコンタクトがあったりという形で出演者は流動的に替わっていきました。でも『サクリファイス/2005』に出演した皆木正純はそれ以降全てのカンパニー作品に出ていて、大橋可也&ダンサーズには無くてはならない存在だと思います。

檀) 彼は一見とても普通でダンサーっぽくないけど凄い変な跳躍とか出来たりするよね。

江) そうなんです。皆木はもともと役者なんですけど、彼の跳躍とか痙攣は神掛かったものがあります。一緒に踊っていてこちらがハラハラするくらいギリギリなところまでやってしまうんですよ。実際に骨を折る大怪我をしたこともあったんですけど…。

檀) (笑) 彼、『Black Swan/2008』の横浜公演のとき、海に落ちそうになってたよね。

江) 皆木が出演するようになってから大橋の振付も大分ハードコアさが増したところがあります(笑)

檀) 多分、その『サクリファイス』の頃からだと思うんだけど、作風も少し変わってきたよね。衣装も裸とか下着ではなくて日常的な洋服になったし。

江) そうですね。その前の『シスターチェーンソー/2004』からきちんと服を着るようになりましたね。大橋自身「本当は裸が一番の衣装」とこの頃はまだ言っていたと思うんですけど、作品に普遍性を持たせることを考えると観客の姿になるべく近づけることも考えたんでしょうか? 衣装はどんどん日常的になっていきましたね。作風ということでいいますと、これは振付方法なんですけど激しい連続運動や舞踏譜以外のネタとして日常的な動作が沢山取り入れらるようになりました。動きのフォルムに拘るようになりました。その際、ある一つの日常的動作をダンサーそれぞれの個性や技量に合わせて非常にミニマルなものにしたり、大幅にデフォルメしたりして振りを展開していくんです。

檀) 初期の頃と比べると踊りに大分幅が広がってきたね。僕が出演していた頃は「走って」とか「叫んで」とかシンプルに指示されるだけだったからね。

黒) 先日稽古場を見学させてもらって感じたんですけど、大橋はダンサー一人ひとりとのコミュニケーションを取る時間を非常に大事にしていますよね。「最近、生活どう?」とか聞いたり。そういうのって初期の作り方、「これをこうやって…」と指示をあおるだけのやり方とは大分違うんじゃないかなって感じました。

江) そうですね。他のダンスカンパニーがどのように作っているか、あまり知りませんが今の大橋可也&ダンサーズの作品は基本的に代役不可ですね。他の人が踊ると全く違う作品になってしまう。他の人が踊る場合はおそらくまたその人に合わせて振付を調整をしていくことになると思うんです。多分、タイトルも変わっちゃいますね。

黒) 一人ひとりとのコミュニケーションのやりとりが大事だから2007年以降はオーディションをして、きちんとカンパニー体制を整えようとしたんでしょうね。普通ダンス作品を見るときってこの振付が凄いとかそれを踊っている人たちの身体が凄いっていう印象をまず受けると思うんだけど、大橋の場合はそれぞれの個性に近づけて作るから単に上手だねとか綺麗だねっていう見方とは違ってユニークだなと思う。

檀) そうそう、それを聞いて思い出したんだけど一般的なダンス作品を見るとき、観客はダンサーとグルーヴ感を共有していると思うんだ。だから開演してすぐに作品と同調して、気持ちよくなれる。でも大橋の場合、演劇のように長い時間を経てやっと最後にカタルシスに到達するところがあるよね。そういう意味でとても構造的だなと思う。

江) そうですね。確実に時間の経過を計算して作っていますね。ダンス批評家の木村覚が『CLOSURES/2007』について次のように書いています。

―大橋可也の作品が見る者を唖然とさせるとき、そこには独自の「時間」が出現している。だからぼくにとって、大橋は時間の作家である。観客をもてなす何らの物語も、舞台上の人物による自己告白もなく、経過する時間。受け身の観客に満足を与えるイリュージョンのヴェールはあっさりはぎ取られ、むき出しでからっぽな、裸の時間が、劇場の閉じた空間に放り出される。 ぼくはそこで、うぬぼれた観客として安穏とすることは最早許されず、出来事の目撃者ないし証人として立ち合うなんて余裕も与えられなくて、ただただ時間が生まれる空間を共有する一種の共犯者のような気持ちでひやひやさせられている、巻き込まれた自分に気づく。観客の見る(体験・体感する)のは、自分も加担してしまっている更新中の時間それ自体なのだ。―
【wonderland 2007年1月27日「コントロールを遊ぶむき出しの時間」木村覚】

もうこれは大橋以外の人間には作品が完成して幕が開けてみないと分からないんです。踊っている人間は作中あまり高揚しないよう指示されたりしますからね。それが如実に表れたのは明晰2(『明晰の鎖/2008』)の中の『ダウンワードスパイラル』だと思います。

■第三期 ~メンバー入れ替わりを経て、明晰3部作が完結へ。公演に際しイベントやペーパーを企画するなど、ダンスシーンを越える試みも始まる~


江) 構造的な作品の完成度として考えると明晰1(『明晰さは目の前の一点に過ぎない/2006』)が大橋可也&ダンサーズの第三期のスタートだと思います。この頃になると大橋も作品を作る前段階でダンサーたちにこれから自分たちがどういう作品を作ろうとしているのか、明確に説明するようになりました。ダンサーは相変わらず流動的でしたが出演者の半分は前作から続投していたのでコミュニケーションも大分取れていたと思います。大きな変化と言えば、音楽がスカンクから舩橋陽に替わったこと、久々に本格的にメディアを用いた作品を作るようになったことです。

黒) 明晰2で第三期の中核になるメンバーが定まったんですよね。どういう風に集まったんですか?

江) このときはオーディションを一般公募したんですが、来た人が全員採用されました。

黒) ええっ、 オール・ウェルカムだったんですか!?

江) はい…(笑) 正直私はそんな緩い方法でカンパニーが新しくなることに難しさもあるかと思ったのです。でも大橋のダンサーとのコミュニケーション能力が上がったんでしょうね。いつの間にかとてもいい雰囲気になっていました。

檀) 明晰の1と2の間には、イタリアの6都市を回った『Journey Beyond the Clarity/2006』ツアーが行われたんですよね。

江) 大橋は今でも時々「舞台環境からダンスを発想するようになったのは、公園や教会の広場をステージにしなくてはならなかったイタリアツアーの経験が大きい」と話しています。『帝国ナイト/2009』短編をリハーサルしに「青い部屋(渋谷のライブハウス)」に入ったとき、ガラス張りの小スペースを見た大橋可也が「この中で踊ることにしよう」と言ってから15分くらいで作品が演出されたこともありました。

黒) 15分? ホントですか? あの作品って解説もセリフも音楽も一切なくダンスだけを見せてくれたんですけど……あ? あれ? あれ? っていつのまにか始まってた作品を数分見ていただけなのにまず鳥肌が立ったと思ったら息がうまく出来なくなるような感じになってることに気付いたんだけどその頃には胸が詰まってるのとダンサーが踊ってる劇中の境遇とそこに生きてる人たちの感情とかにシンクロしてしまってる自分いるなんていう体感は初めてだったんで戸惑ってたんだと思うんですが、え? え? こういうときって涙が出そうになるのかヤベーなって感じで、なんだろう、いま何が伝えられようとしているか、いま何を起こそうとしてこの人たちが踊ってるのか、いま大橋可也に何を見せられようとしてるのかってことが言葉じゃなくダイレクトに伝心されるなんてことあるのかヤベー、ヤベー、ヤベーって気持の中では呟かされてるんだけどそれを声に出した途端に、硝子空間の意味だとかその薄くて脆い危機的な物質感をまとったダンサーのパフォーマンスや作品のメッセージを皹にしてしまうんじゃないかって躊躇ってた、でもホントは苦手なんです一度きりとかその場限りの何かを重んじたりするのって……

檀) 信仰めいててイヤだっていう感じかな。

黒) そうですね。にも関わらず「こんなスゲーの二度と無いからよく見ておくんだ」って啓示めいた勘を途惑いの吐露が汚してしまうんじゃないかって高ぶりが込み上げてきてて息がじょうずにできない、言いたいこと言えない、喋りたいけど喋れない、動きたいが動けないっていうこの有様ってまさにダンサーが数本の蛍光灯の明かりだけに浮かび上がる硝子張りの小さなスペースに詰め込まれた踊って踊らされて踊ることになってる様相と同期していたフロアには観客がびっしり座っていました。立てかけられた縦長の蛍光灯に照らされた硝子一枚に囲われた狭い部屋に家畜みたく詰められた14、5人のダンサーが満員電車とか密室に生きる息苦しさみたいなものを感じさせてたんスよね、硝子に仕切られた空間が建物とか乗物に見えてくるんです。しかもあの硝子一枚が作品に効いてたんだなって思ったのは作品を見終えて数時間経ってからだったんですけれど、あ、仕切りが硝子だった、ガラスに隔てられてる囲われてる叩けば硝子なんてすぐに割れよう、ガラスってあるようでないようなモノだろう?それは砕けば刃物のようにだって握れようがこの場において硝子はその素材が透明であるからこそ「見透けているからはっきり眺められる貴方たちの姿なのにこのままじゃけっして触れることができない」という隔絶の現実感として生々しくありました。あの硝子、そのウチに作品のはじめ異様な静けさを揺らしていたダンサー2人3人の揺れが同調していきます。ところが同調していく2人3人の揺れなのだから集団が成されてたっていいはずなのにダンサーに共感や同意が果たされることはなくって。

江) 踊っていたので分からないんですが、バラバラでしたか? ダンサーが。

黒) ええ、部屋の中を眺めてても「彼ら」とか「彼女ら」という感じはなく、もしやダンサーは魂の温もりを消失したか盗まれたか劣化させられたことによってああなったんじゃなかったか? 硝子小屋を覗けばそこに筋肉質の太い、タイトな肌着に包まれた、まとめられた長髪を廻す、細見の、長身の、むき出しの、大粒の汗を光らせた、ぶつかりを痣とする、それぞれの体に醒めてない何かがあるように感じた。次いでダンサーが生まれ過ごしていた時間のどこかには彼ら彼女らが「醒めてた」瞬間があったということですから「過去」に気付くでしょう? それで作品の上演は、そういった過去を見せる現在でもあると同時に硝子小屋は電車のようにも見えたので、そうか、この乗物は未来に向かってもいるって、つまりおれはここで過去から未来が一針の虫ピンに喉仏を貫かれて宙に止められたという妄想と硝子に囲われた小屋で衝突を続けるダンサーの濃縮された意味が苦しい、苦しい、苦しい、ダンサーは核分裂していく状況反射で爆発的な暴走を果てたそういえば密室で繰り返された十数人の衝突は乱闘にすら見えなかったなんてどういうことか。みんな人なのに。そのぶつかりが乱闘に見えない。なんて。どういうことか……終幕に近づきダンサーは充電の切つつあるロボットみたく……弱まってく……横たわり荒げる息に添って膨らみ萎むダンサー……それでみな床に絶えたけれど、あれから数日は「あの作品ってなんだったのか……」って引き摺っていたし、短篇の上演時間のショートネスも、硝子の密室とか満員電車っていう都市的な象徴のスケールと詩的に共鳴していて凄いよかったので、まさか! たった15分で演出されたとは!

檀) 「青い部屋」での短篇に大橋可也は出現しましたか?

江) 舞台に上がったのはダンサーだけでした。でも思い出してみれば彼が劇中に現われる作品のほうが多そうです。

檀) 『CLOSURES/2007』のとき、非常に効果的な演出が試みられているって思ったんです。演出家がわざわざ舞台上に上がって<自分が作品世界をコントロールしている>ということを表明する。それが一転、演出家という権力の失墜、あるいはシステムの反転を思わせて終わる。現代アート的で興味深い演出だな、と。

黒) さっき青い部屋での作品を賛じたので、一つ観客のコメントを紹介させてください。

―2008年2月11日 大橋可也&ダンサーズ『明晰の鎖』02/09-11吉祥寺シアター。大橋可也&ダンサーズの公演を拝見するのは初めてです。“現代社会における身体の問題を追求し、ダンスの必然性を問う”スタイルに興味を持ちました。(中略)「よくわからなかった」というのが全体の感想です。(中略)眠くなっちゃうことも多かった……―
【「しのぶの演劇レビュー」2008年2月11日】

これは演劇のレビューサイトを運営している高野しのぶさんによるレビューです。彼女は文中で細かい作品分析されていたり、

―客席でじーっと何かを見つめている時間は、豊かな思索の時間だと思います。(中略)演劇だとセリフや意味がストレートに言葉(音声)で伝わってくるので、“思索”といえるほど深い心理に入り込むことって少ないんですよね―

という心理を書いている観劇リテラシーの高い方ですが、それでも“よくわからなくて眠くなる時間もあった”のだと。大橋可也&ダンサーズの舞台は観客との安易な共感を棄てたところから始められている。それは現代におけるコミュニケーションを真剣に考えた結果でもあるんだけれど、パッと見れば難解に感じるかもしれない。でもハマる人はすごくハマる。自分の人生は最終的に自分で決めるんだという人には特別な機会になるんじゃないかと思います。そういう性格であるが故に迷いの時間を過ごしている人にとっても。

■観客、批評、私たち ~言葉で作品世界を咀嚼する、ということについて~


檀) 黒川さん、大橋に出会ったのは佐々木敦さんの批評の講義だったんですよね? ダンスを書くということについて、なにか考えてることってあります?

黒) んーと、そうですね。初めてダンスについて書いたのは『Black Swan』で、それは作品を形而上学的な刺激のある時間として受け止めていく文章だったんですが、後になってあの作品に「夫婦の関係」というモチーフがあったと聞いて絶句し(笑) また『Bleached』には「白色レグホンと高度成長期」という背景があると知ってびっくりしたり。

江) それはダンサーやオーディエンスを導き入れるための物語ではなく、あくまでもダンスを作っていくきっかけとして要請される世界観なんですよね。

黒) ああ、そうか。世界観を伝えるためのダンスではないんですね。自分でも批評を書き始めたのは、作品や作家を見下ろした位置から見識を押し付ける暴力的な文章にすごく不満があったからだったんです。まあそんなこと気にしてるのはおれだけなんだろうと思ってたら、批評や批評家への強い不信を訴えるダンサーやアーティストって少なくなくて。

檀) 作品の難解さ、そして批評テキストの抽象性の高さは、『帝国、エアリアル/2008』で唄われた「生きづらさを感じる人」が鑑賞する上でのハードルの高さに繋がっていますね。

江) 『明晰』シリーズのファンが社会的/言論的だった『帝国』の方向性に違和感を覚えたという話も聞きます。

黒) ただ、批評には批評の可能性があるし、すべてのアートがそうであるようにダンスも言葉と切り離せないでしょう? たとえば振り作りのモチーフひとつ確かめてみても、それは言葉で認識されている世界観。だから、言葉を発することが作品の可能性を乏しくさせることもあるって自戒しつつ、作り手にとって刺激的な受け手でいるためにはどういう書き物がやれるか考えたいし、アーティストには未知との遭遇を経験させて欲しいから、こちらもアーティストに未体験を還せるような何かを書こうと思ってます。檀原さんは作家として批評についてどう考えてらっしゃいます?

檀) 「辻調理師専門学校」の辻校長の伝記小説を読んだとき、「料理評論家はなぜ必要なのか?」という話が出てきたんですけどね。トップシェフは忙しくて自分と付き合いのある店にしか食べにいけないらしいんです。業界のトレンドや新しい流れを、時間が取れない一流のシェフに伝えるのが評論家の務めだって。それはダンスの世界でも同じじゃないかな。

江) その一方で、ダンスシーンの内側だけに留まらない活動をしていくためには、ダンサー以外の人たちにも届く言葉が必要ですよね。

檀) では、最後に明晰3『深淵の明晰』への期待を一言づつ。

黒) 創作モチーフの翻訳や注釈に留まることない踊りでもって、踊り手が作品を内から砕き、ダンサーとして孵る瞬間を目撃しに出かけます。

江) 明晰2は確かな手ごたえがありましたので是非それを超えてほしいですね。今回対談するにあたって久々に過去の作品を見ました。そうしたら、やはり進化した部分も沢山見えたんですけど逆に置いてきてしまった面白さも見えたんです。ダンサーの身体の個性という点では過去のほうが際立ってよく見えていた気もします。いまの匿名性の高い振付の中でもダンサーそれぞれがもっと身体を主張し合ってほしいですね。

檀) 観客の意表をつくような、あらたな次元への萌芽が見られるんじゃないかと、密かに期待しています。

(2009年6月21日 東京・森下スタジオにて)

檀原照和
「土地にまつわる習俗」をテーマにした作家。2006年に夏目書房より『ヴードゥー大全』を、2009年に『消えた横浜娼婦たち』(データハウス)を発表。大橋可也&ダンサーズへは一作目と三作目に参加。

江夏令奈
大橋可也&ダンサーズのメンバー。1980年生まれ、早稲田大学第二文学部卒。在学中、和栗由紀夫と出会い師事する。様々な舞台を経て、2003年より大橋作品に多数出演する。現在第二子妊娠中のため、ダンサーズ活動は産休中。

黒川直樹
「誰だ!なんだ!この作文は……」と哂った教授が秘密枠での誘いを決めてくれたことで入学が叶った大学でデザインと書き物を始める。水木しげるとゴダールと村西とおるを尊敬する現代詩のトリル。BLOG「仮)黒川直樹の妄想劇場」支配人でもある。

posted by Kakuya Ohashi at 2009/09/16 23:34:33 | TrackBack
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