無感動という体験から目を背けない

March 7, 2007

無感動という体験から目を背けない [ dance ]

作品の内容については書かない、と書いたのだが、ニブロール「no direction。」についての感想を書いておく。
コンテンポラリーダンスという狭い業界の中で、他のアーティストの作品に対して否定的な意見を表明することの意味に疑問を感じないわけではない。足を引っ張り合うっていうことに。だが、彼らは評価を得ている、観客が来ている、助成金をもらっているカンパニーなのだから、否定的な意見を表すことにも意味はあるだろう。

# これまでにもずいぶん否定的な表現を使っているように思えるかも知れませんが、それは僕の表現が稚拙なせいであって、共感できるアーティスト、作品しか取り上げていないつもりです。

全体的な印象

いい大人がその財力を使って高校全国演劇大会に無理やりエントリーしてしまった。

その耐え難いダサさ

僕が以前にニブロールの作品を見たのは1999年だけである。そのころから矢内原美邦が才能ある振付家であること、その大胆さと情熱については理解していたつもりだ。と同時に、その作品世界、とその世界を構成する要素のダサさは当時から全開であった。
おそらくは、そのダサさが親近感を生んでいたのではないかと思う。確かに僕もそのような感情を持ったのは事実なのだ。
で、今回の作品ではどうだったか。そのダサさが遥かにグレードアップ、スケールアップしていたのだった。
やっていること自体は変わっていないと思う。だが、ここまでダサさが圧倒的だともうこちらの感覚が麻痺してしまう。何も感じる、考える気力が失われてしまう。
それが狙いだとすれば、なんと空虚な体験なのか、観客である僕たちにとって。

そのモチベーションの不思議さ

多分、衣装なんかは、あえてそのダサさを前面に出しているような気がする。音楽についてもそう。粗製乱造を狙っているというか。ただし、時折、審美的に良いと感じられるシーケンスがあったりするので、乱造ぶりがぼやけてしまい、かえって作品全体のダサさを強調することになっているのだが。
しかし、映像とかセリフとか振りは、どこからそれらを作ろうという動機付けが生まれるのか理解できない。ましてや、その動機付けを公演を上演するまで維持するということなど。
映像についていえば、今や普通にビデオカメラで撮ってPCを通せば見栄えのあるものが出来てしまうわけで、よほどの批評性を持たないと、映像作家として作品を作ることに耐えられないのではないかと想像してしまう。
みんな、もっと生産的なことに労力を使いませんか。

その驚くべき寛容さ

で、東京公演を見た結果は、嫌いな要素はいっぱいあるんだけど (上述の通りテーマにはあまり共感していないし、音楽もコンテンポラリーじゃないと思う) 全体としては結構好きだという感想を持ちました。

返信にかえて

なぜ、ここまで人はあたたかくなれるのでしょうか。人の心の美しさを感じます。

寛容であることは美徳ではある。しかし、ダメなものはダメですよ。
プロダクトに関してはね。この場合、作品については。
この寛容さと作品に対する曖昧な態度はどこからくるのか。

ダンスに関する言説の多くは、作家と作品を混同している。もちろん、作家としての評価は作品の評価と不可分である。しかしながら、作家、つまり生きている個人、に対する思い入れと、関係性などが、作品に対する正しい評価を曇らせてしまっていると思う。
結果として、作家についての言説も育っていないのではないか、というのが僕の持つ疑念である。
このことは重要なので、またあらためて書くことにしたい。

posted by Kakuya Ohashi at 2007/03/07 22:41:45 | TrackBack
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