吉本昌行(志人)

October 23, 2008

吉本昌行(志人) [ empire_paper ]

ダイアローグ×大橋可也「面白みのない世の中に対しておもしろいことをやりたい」

大橋:僕が志人さんにすごく関心を持ったのは、路上で歌ったりだとか、そういう経験っていうのはすごく重要だと思っているんですよ。路上においてのパフォーマンスというか伝えることというのと、そのときに起きている自分の身体だったり、見ている人の身体、あるいは見てないで通り過ぎていく人の身体、というところに何か気づきというか、思いがあればお聞かせ下さい。

吉本:自分としてはやはり、生まれ育ったのがこの東京新宿という街でして、5年前くらいから自分がその街をすごく客観的にみたりとか、サーっと人々がこう流れていっている中で、パッと止まって街を見てみると、その中で起きていることがよく目に留まるようになっていきました。それくらいから、まず街を「見る」視点がガラっと変わった気がします。私には、そこに住んでいるんだけれどもまるで宇宙人のような、もう地球にいないかのように街を見ている視点っていうのが出来上がっていって、そうこうしているうちに、人々の”普通”の動きというものが逆に”異常”なんじゃないかと思うようになってきまして、人々が「多重人格的」に人と話して、「多重人格的」に携帯電話で話し、「多重人格的」に映画でも行こうかっていう約束をして、また「多重人格的」に歩いていく姿を見たときに、そこに「閉じている」感覚があったんですね。その人々が閉じている中で、例えば街宣カーで覚醒を促したりだとか、やっている側としてはすごく開いてるというか、耳を嫌がおうにもジャックしようとしてるのかもしれませんけども。その「開く」ってことが認められた場所で「開く」っていうことと、禁じられているというか普通だったらそりゃしないだろっていうなところで「開く」っていう行為っていうのはまたぜんぜん違うなと。ですから自分がもし路上でやるときっていうのは突発的でもあり、今だって思ったら今すぐにやる。何故「開きたい」と思うのかと言えば、どっちが「人間的」かっていうことを自分がいつも考えていることなんです。ただ高田馬場や新宿界隈では、人のことなんか気にしてらんないっていう状態、つまり思いやりも何もない状態が非常に多く見受けられていて。その中で、自分は街宣カーに乗ってやるとかそういうことの表現ではなく、どちらかというと「非暴力的」な方法でやりたい。
無理やりでは無く、思いやりで。

大橋:志人としては政治的な理念とかっていうものに、それを直接訴えることはしない、という話をされていましたが、最近になって生きづらさを感じている人たち、弱者を救う運動っていうものが出てきたと思うんですね。直接的な、特定の政治の方向性っていうのはないのかもしれないですけども、そういう運動というか社会運動について、自分が関わってみたいだとか、客観的に見てどういう風に思われますか。

吉本:そうですね、私自身も色々な活動家に出会って話を聞いたりして来ました。
しかし、反対活動は僕の中ではネガティブイメージがある。反対活動は絶対に必要なものなんだけれども「直接行動」というものに興味がある。反対活動っていうのはネガティブにネガティブをかけ合わせてっていう部分もあると思います。反対活動をしている内にどんどん状況が悪化していってるっていうのも事実で、その悪化していってるという状況は、例えばですが、地球環境の問題に関して言えば、地球上の緑が激減している事の一要因に地球温暖化が考えられる。そこで反対活動というのは、そうした要因を追求し、前線に立って誤りを正す方向へ促す訳でありますが、誤りを正そうと何年も反対をしている一方で、状況は一向に良くならない場合もある。最近のエコブームでエコバッグを使ったり、CO2 排出量の少ない車に乗る心遣いをしても、「木を植えたり、種を蒔いたり、(直接行動)」する人は都会にはなかなか居なかったりする。勿論やっている人も居るが。つまり、一見して反対活動に見えても、それはファッションになっている部分が多々あると思う。しかし、「木を植える」という直接行動は、植えた人も、そしてその人の子孫も、植えられた地球も、嬉しい事だと思う。これは経験してみると分かります。人間という命だけが生きている地球ではない事に改めて気付かされます。皆が違って皆が良いんだと思える森の心が人の心に芽生えると思います。又、「種を蒔く」という行為も素晴らしく、「終わらせる」のではなくて、常に「始める、生まれる」感覚がそこにはあると思うからです。
自分としては、いたたまれず行動に移してしまっている人、本質をずっと守ってやっている人間に非常に興味がある。自分の考えとしては反対活動に対しても別に反対ではない。ただそうしている間に状況が悪くなっていってるのをどうするかっていうことを実際受け止めてやっている人っていうのは非常に大変な労力だなと。
ですから私の好きな人間は政治的な活動家ではなくて、そういった反発的なエネルギーを表現に変えてしまう「表現者達」だと思います。なにしろそういった「表現者達」はどこにでも起こりうる”政治”が大嫌いなんですから。
最近ですと戸田真樹君という画家を始め、彼の周りにいる人間とか、この常に面白みのない世の中に対してなんかおもしろいことやりたいねっていうことを純粋に考えている仲間達と何かできないかなと思っております。今年の年末から来年にかけて、自分たちの周りでこれまで出会った人たちと、「場」を設けまして、そこでやりたいことやったらいいんじゃないかと思っております。例えば絵を飾ってる日や、歌を歌ってる日もあってもいいし、おじいちゃんの話を聞いたりだとか、そういう場があったら楽しいねっていう単純な思いから。それは純粋に自分たちがそういう場にいれば楽しいねっていうのもあれば、もしかしたらそこに来た人々はクラブで踊っている瞬間よりも、なにかこうもっと刺激的な瞬間ってものがあるんじゃないかと。ある人がお笑いについて話していましたけども、笑わそうと思って意識的に人を笑わせるのが本当に面白いお笑いではなくて、人がめちゃめちゃまじめにやってる瞬間ってもしかして逆にめちゃめちゃおもしろい瞬間かもしれないっていう、なんか笑っちゃいけないんだろうけども、笑っちゃうぐらい逸脱してやっちゃってる人っていうか。本当にそういう人間にすごく興味がありまして、僕と戸田君の間では「パンペン」って呼んでるんですけど(笑)。勝手な造語なんですが、「パンク・ルンペン」の略で「パンペン」って。本当に自我の膜と自意識の膜がバコーンと外れちゃってるような人たちっていうのを集めてなんかやったらきっとおもしろいことができるんじゃないかなーと思って。
踊らそうと意識的な「支配の場」を作るのではなくて、自然に「心踊ってしまう風景」を探して。
つまり、「場」を作ろうとしている人間は権力者なんかじゃなくて、そこに在る全ての命が主人公であり、全ての命が「場」を作っているのだと私は思うからです。

大橋:それではたぶん来る人も受動態ではなくて「来る」っていう意思を持って、必ず何かを受け取るっていう意思を持って来るんですよね。そういうのは運動って言葉が適切かどうかわからないですけど、たぶん少しずつでも変えられるきっかけなんじゃないかなと。

吉本:そうだと思いますね。普段だったらもう本当に日陰に隠れて、見ようと思っても見られないような人たちが、そこに行けば見られるというか。
それはもう闇の中で光ってるヒカリゴケみたいな(笑)

2008年9月23日 高田馬場にて
聞き手:大橋可也、菅原靖志、熊谷歩

吉本昌行(志人・しびっと):
新宿区上落合生まれ。旅人。小説家。表現人格クリエーター。志人(降神/TempleATS)
「森の心」に目覚めた彼は現在、農学を学ぶ傍ら、祖父母から受け継いだ畑を耕している。
志人(シビット)は、降神非行期(オリガミヒコウキ)、玉兎(タマウサギ)なるオルターエゴ(別人格)を持つ。時には歌う変幻自在のフロウを持ち、従来の日本語のHIPHOP観を覆す唯一無二の存在であり、ジャンルの壁を超え音楽空間を彷徨う旅人。内なる宇宙からとめどなく溢れ出す言葉は、聴く者の脳裏に映像を浮かび上がらせ、まるで一つの映画を見ているかのような感覚へ誘う。

TempleATS

posted by Kakuya Ohashi at 2008/10/23 8:26:50 | TrackBack
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