佐々木敦

October 23, 2008

佐々木敦 [ empire_paper ]

「からだの重心がおかしくなっている」ー大橋可也&ダンサーズに関するメモー

手をふって別れた
それからホームに突き落とした
どこにも行くところがなくて
空も飛べなくて
くるしむことも
くるうこともできないぼくらは
からだの重心がおかしくなっている
ゆらゆらとフルえるヘンな生き物に
なって(いる(いない(かもしれない
ー渡辺玄英「けるけるとケータイが鳴く(毎日新聞ばーじょん)」ー

まったく偶々のことではあるのだが(だが「まったく偶々」などということは本当は無い)、大橋可也&ダンサーズについて考えようとしていた時に、渡辺玄英の新詩集『けるけるとケータイが鳴く』が届けられ、繙くうちに、そこに記されたことばたちが、今年の二月に吉祥寺シアターで『明晰の鎖』を観た際の紛れもない衝撃を、まざまざと思い出させた。冒頭に置いたのは同書からの引用だが、だってこれはまるで、あそこに在った「からだ」たちのようではないか?
私が『明晰の鎖』から受けた衝撃とは、まず第一に「即物性」ということだった。ビデオを多用しているのにもかかわらず、いやむしろ、ビデオキャメラという記録メディア/表象のテクノロジーを駆使しているからこそ、そこに恐ろしくリアルに立ち現われる、モノとしての身体、ブツとしての行為に、したたかに震撼させられた。
『明晰の鎖』を観た日のブログに、私はこう書いている(一部省略)。

大橋可也&ダンサーズ「明晰の鎖」とヤン・ファーブル「死の天使」をはしごしました。「明晰」は非常によかったです。僕なりに大橋さんが「ダンス」ということでやろうとしていることを、やっと理解できたような気がしました。身体と肉体の違いの問題、表象と上演の違いの問題、物語と物語る行為の違いの問題、などなどが、きわめて直截的に、即物的に、明晰に問われていました。前評判の高かった「死の天使」は、アンディ・ウォーホルが女性に狙撃されて一命を取り留めた事件を元にファーブルがテキストを書き、イヴァナ・ヨセクが4面のビデオスクリーンに現われるウィリアム・フォーサイスと共演する、というかなりアクロバティックな作品。当然のごとく完成度は異様に高かったのですが、僕的にはいささか文学的、芸術的に過ぎるような気もしてしまいました。観念的な「死」の(「死」の観念の)追求よりも、誰も知らない女が誰も知らない女を刺した、という、ある意味で極めて通俗的な出来事を、ひたすら強迫的に反復し続ける「明晰の鎖」の方に、リアリティを感じてしまったのです。

「誰も知らない女が誰も知らない女を刺した」という、あまりに素っ気のない、ぶっきらぼうでさえあるような、おそらくはありきたりの、だがあからさまに取り返しのつかない出来事(のようなこと)は、もちろん舞台上で真に起こっているわけではない。ある意味では、そのようなことが演じられていたのでさえないのだ。ただ、そのような身振りと、それを行なう「からだ」があった、ということなのだが、それでもなお、そこには異様といってよい生々しさと禍々しさが宿っていた。それは演技や表象といった概念では割り切れない、極度に明晰な現前としての「出来事=事件」だった。つまりそれは、要するに現実の事件もこのように起こるのだ、と無根拠に確信させるようなものだったのである。
先のブログの短いエントリでは舌足らずなので、少しパラフレーズしてみよう。まず「身体と肉体の違い」について。生身の「からだ」という意味での体を「肉体」と呼び、それを含み/それに含まれながらも、もう少し抽象的な「私」の外延と内包の様態を「身体」と仮に呼ぶ。たとえばダンサーは前者によって後者のなんらかを表現する。その「表現」のベクトルや目標はそれぞれではあるが、いずれにしても「身体性」なるものをひたぶるに突き詰めてゆこうとするならば、そこに立ち上がってくる、ひとつの極限値とは、ただそこに(ここに)在る、ここに(そこに)居る、ということである。存在のゼロ度、零度の存在論としての「からだ」。しかしそのとき「身体」は、実は限りなく「肉体」に近づいている。それは戻っている、と言ってもよい。なぜなら「肉体」としての「からだ」は常に既に与えられている、すべての前提であり、あらゆる人間が逃れることのできない、まさに肉の袋としての牢獄であるのだから。
「身体性」の極限は「肉体」の顕現で在り,それは同時に「肉体性」への回収でもある。突っ立ったままの死体がけっして死んではいない以上、不動の「からだ」の獲得は、結局のところ、ぎりぎりまで至ると「表現」とは離反する。だが、そうするわけにいかない場合、奇妙なことに、というべきだと思うが、そこに在る/居る「肉体」はふたたび「身体」へと逆流する。だがそこで見出される「からだ」には、観念の澱が張り付いてしまっているのだ。ただ居る/在る、ということに、ひとはそれ以上の・それ以外の意味を付与しないでいられない。そこにどうしても意味を探し出せないのならば、その無意味をこそ意味性に転倒しようとするのだ。私見では、たとえば暗黒舞踏と呼ばれたジャンルが辿ったプロセスとは、概ねこのようなものだったのではないか。そこに孕まれた「観念」は、こう言ってよければ、極めて文学的である。舞踏と詩との共振は、ある種の必然であったのだ。
だが「からだ」が「詩」に成ることで「表現」となれるような幸福な時代は既に去った。大橋可也はたぶん、その後姿を垣間見ることの出来た最後の世代のダンサー/コレオグラファーである。だが、だからこそ彼は、存在を観念に変換することを、そのまま潔しとすることが出来ない。そこには決定的といってよい懐疑が、亀裂が生じてしまっている。彼は、ただそこに(ここに)在る、ここに(そこに)居る、ということに留まらざるを得ない。或いは彼は一旦、観念へと突き抜けようとしたのだが、ことによると、そこでの観念性の飽和を自らの「からだ」に浴びたあげく、ある断念と確信とを携えて、ふたたび「リアル」へと突き抜けた、ということなのかもしれない(これはヤン・ファーブルが、実際の事件に想を得ながら、最終的には「思想=観念」に成ってしまっていたのと丁度逆さまである)。
もうひとつ、渡辺玄英の詩を引こう。

私じゃない
私の血じゃない
(これは私のはずがない(はず(ほんと?
じゃあ 私って誰?
かえり血 たくさんのかえり血
(何かをわすれてここに立ちすくんでいる
ひとりで影ふみをしていたら
ちまみれになっていましたせんせえ
殺したのはボク(私じゃない
殺されたのはきみ(私じゃない
ような気がする(したり(ち(したたり(するかも
ー渡辺玄英「ミツバチのよーそろ」ー

渡辺玄英の詩は、かつて「舞踏」と蜜月時代を過ごした「詩」とは、本質的に異なるものへと変容してしまっている。ほとんどまったく「文学的」でも「観念的」でもない、だが突き刺さるほどにリアルな「ことば」。ちょうどこの「ことば」に対応する「からだ」を、大橋可也は探求しているのだと私には思える。それは「重心がおかしくなって」おり、「くるしむこともくるうこと」も出来ず、だが突然誰かを(自分を?)「ホームに突き落とし」たり、ふと気づいたら「ちまみれになって」いたりするような「からだ」である。そしてそれは間違いなく、現在を生きる(しかない)われわれが、それぞれの「私」を入れる袋として、どうあっても手放す事を赦されていない、すべての「からだ」のことでもある。「明晰」さとは、この残酷極まりない真理の別名でなくて何だろうか。

佐々木敦(ささきあつし):
1964年生まれ。批評家。HEADZ主宰。BRAINZ塾長。エクス・ポ編集人。著書に『(H)EAR-ポスト・サイレンスの諸相』『テクノ/ロジカル/音楽論』『ソフトアンドハード』『ex-music』『テクノイズ・マテリアリズム』『ゴダールレッスンあるいは最後から2番目の映画』『映画的最前線』。早稲田大学、武蔵野美術大学で非常勤講師も努める。

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posted by Kakuya Ohashi at 2008/10/23 8:39:22 | TrackBack
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